度とかえらぬギリシア時代[#「二度とかえらぬギリシア時代」に傍点]よ。ですから、私を哀れと思い、どうぞ現状維持を最低のレベルとしてお願いいたします。おっしゃったキロね、換算したら相当のものでした。十五キロが四貫でしょう? だからね。その位ならブランカにふさわしきというところでしょう。
 昨夜月が皎々と輝いているのに青桐の葉をそよがせて白く雨が降っているときがありました。お気がついたでしょうか、もう割合おそかったから眠っていらしたかしら。私は、眠れる筈だしいい心持だのに、眠れず、白い蚊帖が風に微かにゆらめくなかで、その月と雨とを眺めながら横になって居りました。風にゆらめく蚊帳というものは大変抒情的よ。心も一緒に風にゆれます。うれしいやさしいゆらめきもあるし、心配なときは、かすかにふくらんだりしぼんだりしているのを見ていると、あはれ、わが愁にも似たるかな、という風でもあります。
 八月一・二日とおっしゃったとき、何だかあぶなっかしかったのを、暦みたら、土、日、よ。虫が告げたのでした。そうすると、三十一日か四日ね。三十一日になりそうです。
 きのう、いろいろのことお話する間がなくなってしまったけれど、あのとき栗林氏に会ったのでした。よその人の用で来たらしく。よろしくとのことでした。用事のこと改めて云っておきました。いやにお辞儀丁寧にして。わたしはお辞儀はもっともっとお粗末でいいから事務をちゃんとして欲しゅうございます。
 小説の原稿きっとかえしてよこすでしょう。旧作で、意にみたないからかえしてくれと云ってやりましたから。
 寿江子はいい工合に大した悪いものではなく、もうパンたべて居ります。国男はまだ床の上。
 私は八月も九月も、どこへも行かないことにきめました。そして八、九月は、外出の用もいくらか片づいたらよく本もよみ、眠り、そちらへ出かけ、大いに楽しく過す決心しました。一寸したわけがあって。もうどこへ行こうとも思いません。ドカンドカンとならないうち、私は歩ける往来は十分歩いておきたいと思いますから。そうきめたら却ってあくせくしなくていい気分です。御賛成でしょう? 私たちにとって快適な暮しかたというものは、大体そう型は変らないのですね。自然そうなるというなりかたが、私たちの暮しから湧いて来るのだわ、結局。あんなひどい病気して、こんな眼になって、世間並ならマア避暑というところを、結局東京にいて、暑いわねとあなたに云っているのが、やっぱり自然だというのだから、自然[#「自然」に傍点]のふところは大きいものです。
 きのうは、ブランカが、自分のよろこびをあらわすとき、どんな身振りするのだろうと思いました。あの話にはブランカのそういう場合は観察してありませんね。あんなブランカだから、うれしさを抑えるなどということは、自分の好奇心をおさえかねると同じように抑えかねるのでしょう。白い毛をどんなに波うたせ、どんなに眼をキラキラさせ、尻尾をどんなに房々とゆすりながら、ロボーの見事さ、美しさに傾倒するでしょう。堂々としたロボーは、たてがみにふちどられた首をいくらか傾け、鋭い鼻と、智慧の深い眼差しで、ブランカを眺めるでしょう。ブランカが、美しいと感じる感じを抑えかねて我知らず唸るその気持は、人間の私にもよくわかります。立派な美しさというものは何と抵抗しがたいでしょう。
 何とも云えず立派に、美しい。というような美をもっている女のひとは、大変すくないのね。女の生活が、そういう美の内容を与えにくいのでありましょう。周囲のマさつを、悠々と越してゆくだけの力が、種々な面で不足していて。ゲーテ、アポローなどと云うけれど、旧い旧い常套です。美の範疇は遙か前進して居り質をかえています。私は自然の美しさ、微妙な趣をよく感じることが出来て仕合わせだと思ったことはこれ迄度々あり、人間の美しさ肉体と精神の極めて高貴な調和もよく感じ、そのことにも深いよろこびを見出しているけれども、時にそれは又新しい力で心をうつものとなります。
 折角養生していらっしゃるのだし、手紙余り長くなく度数の方で加減いたしましょう。その方が便利でしょう? 私の愛好する二重唱の全曲とすれば、これはほんのほんの序曲というところですね。

 七月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(比治山公園旧御便殿(広島)の写真絵はがき)〕

 七月二十三日 エハガキが段々払底になり駄作連発。この間うちお送りした紀州田辺の風景のうち扇ヶ浜というのがあってそれはそれは虹ヶ浜に似て居りました。六年前の夏、お母さん、山崎のおじさまなどと砂浜の茶屋に一日休んだときのこと思い出し、その松の下を歩いた人の心持を思いやり一寸やきもちをやき、とかいたけれど、あんまり虹ヶ浜に似ていて、私の心に小説が湧くので、御免を蒙って其は私の筐底《きょうてい》ふかく蔵すことにいたしました。

 七月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(土畑鉱山従業員居住地の写真絵はがき)〕

 こんな山の景色は、暑い蝉の声を思いおこさせますね。富雄さんの新しいアドレス。中支派遣槍第二三四四部隊川之上隊です。隆ちゃんところは、いつぞや教えて頂いたままでよいのでしょう、新しい変りはきいて居りません。きょうは八十六度、風涼し。きのう出かけてつかれて夜九時すぎからけさいっぱい十四時間眠ってしまいました。大したものと、およろこび下さい。

 七月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月二十五日 きょうは日曜日。咲枝は日本婦人会の勤労奉仕で朝から出かけました。私はきのうの午前、きょうの午前とかかって、やっともって来たあなたの夜具その他を整理いたしました。今午後二時すこし前。八十五度。でも風があってきのうよりは汗の出が楽です。大体今年は風のある夏と感じるのよ。哀れに、滑稽と申すべきでしょう。
 工合はずっと同じでいらっしゃいますか。風は通しても横になっていらっしゃる背中はかなり暑いことでしょうね。片方へ横になっていて、自分では手勝手がわるいが背中のところパタパタ風を入れて、すぐそこへ臥ると、いくらか涼しい気がいたします。夏のかけものは、もしかしたらそんな綿の入ったのでなく、タオルのようなものがいいかもしれませんね、シーツいかがでしょう。大丈夫? シーツはどこでも恐慌で、大やりくりよ、あなたのおつかいになって、一部分のぬけたのをつぎ合わし、お下り頂戴しています。なかなかよく眠れて結構です。
 夜具は地がきれたのに、綿はきれず、十年前のいい綿は本当に綿らしいと感服しました。いつだってあなたの夜具は、膝をお立てになるところが綿切れして閉口していたのですものね。それに、あれにはどっさりあなたの運針のお手際があって、解くのも面白く、ひとりで二階の畳廊下で、青桐の風をうけながら折々笑いました。なんてがん丈に、とめてあるでしょう。まるで、ここを止めようと思う、と糸が自分で云って縫っているようよ。そして、唐子《カラコ》の頭のようにこぶこぶだらけで何と愛嬌があるでしょう。ピョコン、ピョコンとこぶたこがあって、僅かのところがギリギリからげてあると、お気の毒と感じるばかりですけれども、この位連続してお手際が見えると、いろいろ感じ糸のこぶと話でもするような気になってほどきます。大したこともないナという首の曲げかたで縫った[#「縫った」に傍点]ところ御覧になるときの様子も見えるようですし。
 しかし私は良妻ですから、そんな風に只抒情的であるばかりでなく、其にしてもほどけたり、やぶれたりするのはいいお気持でなかろうがと研究もするのよ。この次はどこを特に念を入れ、世間並の縫いかたとちがえた方がよいか、ということなど。大したものでしょう? 一寸ほめてやるねうちもなくはないとお思いになるでしょう。
『インディラへの手紙』第二巻読みはじめました。夏の間に、これと『外交史』ともし出来たら『貿易論』という本よみたいと思います。『インディラへの手紙』は第三巻が九月に出ます。出たらお送りしましょうね、『外交史』第二巻どうぞ下さい。シートンいかがでしょう、二巻以下お送りしましょうか。いくらか鼻につくところもあるから、余り熱中もいたしません。しかしブランカとしてはロボーの堂々ぶりを知っておいて頂く方が話がしやすくて。ですから第一巻は、どうぞどうぞ、というわけだったのです。ブランカはいろいろに唸ったり、いたくなくかみついたり、ロボーの足もとにころがったり、すごすごと尻尾を垂れたりするのですから、ロボーのあの立ち姿は是非おなじみになって頂かなくてはならないものでした。
 病気をすると国男さんもいろいろとよみます。シートンを全部病院でよんで、ストレチイの『ヴィクトーリア女皇伝』をすっかりよんで、今ヘディンの『馬仲英の逃亡』をよんでいます。筑摩で『彷徨える湖(ロブ湖)の話』(ヘディン)をくれて、それをかしたら冒頭が馬にヘディンが幽閉されたのが終ったところから始っています(一九三四)。それで、前半にあたるのをかしたわけ。ストレーチイのヴィクトリアは同じ平凡な女性の一生をかき乍らも、時代も人物もちがうせいかツワイクのマリー・アントワネットとは全くちがい、平板です。偉大な時代というのでなく、イギリスの凡俗な興隆とヴィクトリアの凡俗さが、どう一致していたかというところが面白いのでしょうし、文学でいうヴィクトリアン・エージか、テニソンを親方としてアカデミーが下らなくなった意味もうなずけました。ヴィクトリアは全く芸術は分らなかったのよ。アルバートはドイツ出でドイツの君公の文化的伝統で、文芸を庇護してやるということに興味をもっていたが、これ亦芸術は分からない。ヴィクトリア式という、偽善的なような礼儀のやかましさもヴィクトリアの女らしいがんこで狭い道徳趣味からなのね。それを、イギリスの中流人が、自分達の生活感情の偏狭、独善と融和させたものであったようです。このストレーチイはエリザベスを描き、これは大きい性格の女で大きい時代に生きたから、個性とその環境を描いても相当面白いものだがヴィクトーリアは、その後の繁栄のコースを生きつつ凡俗なイギリス社会の風潮とヴィクトーリアという女性との交互の形成を描かないと、やはり面白つまらないと云う程度に止りますね。それにつけても王侯たち、特に女性たちが、本当に聰明になろうとするのは、何と大した、殆ど不可能事だということを痛感します。普通のひとよりひとに一つでもよけい頭を下げられる立場のものが、自分をいつも生きた人間に保っておくということは何とむずかしいでしょう。紫式部は相当のおばさんで、中流の女性が、自分の生きてゆく努力のために箇性も発揮して面白い人が多いと観察して居りますが、全く世間の女より十倍も二十倍も優秀でなければ、ああいう人たちは優秀になれない条件です。愚鈍になるように出来ていますものね。
「マリー・アントワネット」のなかでつよく印象されたことは、マリーを最後迄助けようとしたスウェーデンの貴族があり、それはマリーの愛情をも蒙った人ですが、おどろくべき大胆と周到さとでルイ一家の逃亡を計画しながら、マリーに出来るだけヴェルサイユですごしていた便宜さを失わせまいとして、その男は特別製の馬車やトランクやをこしらえ、そのために、やっと逃げて行ったのにつかまってしまったことです。貴族が自分の貴族らしさを、こうもすてきれないかとおどろき賢人の愚行に打たれました。ストリンドベリーやニイチェやその他西洋のすこし辛子《カラシ》のきいた男が、女性というものに何となし、おぞけをふるったのも尤だと思います。ショーペンハーウェルにしろ。日本の女は素朴な社会での在りようそのまま、あんまりキノコみたいであるかもしれないが、それだけ自然さや醇朴さをも保ったところもあります。女でも西洋の女には、へきえきするところがあります。
 さて、昔のタイプライタアの紙もいよいよこれでおしまいよ。この次からは、私が昔ロシア語のタイプをうったとき使った紙ののこりとなります。これよりわるい紙。
 土蔵に、浮世絵
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