これお喋りいたしましたね。でも、云わねば腹ふくるる、のよ。犬っころにしたって、時には一つの前肢を手のなかにとって貰いたがるでしょう? マアあれね。

 六月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月十一日 おとといときのうはかなりの気温でしたが、きょうは七十八度ほど。七十度代だとこの位なのね、大分楽です。
 八日づけのお手紙ありがとう。ぐみ頭の訴えをしたので、やっぱり御心配をかけすみませんでした。でもこの手紙とゆきちがいに又の二通がついているでしょうから、そういうちいさい苦情は大したことなく、むしろ疲労しているにしろ体はよくなって抵抗力が出来、リアクションが生じるところまで来ているのだそうですから、御安心下さい。月、木の次の日は、よく用心して休むし、この頃は歩くのもかなりしっかりになって来ましたし、字だっていく分抑揚がついて来たでしょう?
 用事は、今のテンポなら七月初旬までには一片つきそうですし、さもなければどうしても休暇をとります。七月十日以後は出かけることはとりやめにして、もし出来たら田舎の温泉へ行きます。八月九月の中旬までいて、残暑の苦しさがすんでからかえります。私の体も今年のうちにしっかりさせておかないと、来年は今より薬も食物も不自由になることは明らかですから。眼も特別な場合にはこの位のものがこうしてかける(これだけよ、でも、こんなにかけるのは)し、新聞は駄目でも八ポイントぐらいの本は、五号の活字でなくてもたまによめるようになりましたし、そういう能力は、ふだんの四分ぐらい迄戻りました。こんなにして、不自由ながらいつの間にか一年もしてこの頃は楽になったと思うのかもしれないことね。段々、家康ではないが、不自由を常と思えば、のことになって来るのは生活の微妙なところです。必要にひっぱられて何とかやるようになるところ。鉛筆で小説かいたりして全くびっくりします。これもいいことよ。微熱の出るようなこともないし、根本的な心配はございません。
 この前行ったときは、前日外出した翌日だったからほんとうに疲れていたの。翌日に出かけるような心持だから、動悸だってひどかったし、口をしめているのが無理ぐらいで、おそらくはれぼったい顔していましたでしょう。出かける方はやめられないし、今の組み合せでつづける方が、私として前のコンビとは比較にならない好都合です。この人は作家だということを昔から知っている人、新潮の「文芸日記」つけはじめたときから私のかいたものや、写真知っている人は、まさか一定の必要から興味もなく書いたものをひっくりかえしたり、うの目たかの目の人より常識に立ってものごとが判断されるのは自然です。自分の生涯というものについても現在いるところよりは少しひろく遠いところに着眼している人は、一つ一つ目の前のものを自分の跳び台にしようとあくせくすることもないようです。
 同じ風邪をひくにしても、いやないやなひきかたと少ししのぎ易いという場合もあり。私は疲れは附随的なものでどうしたって何かすれば疲れなければならないのだから、疲れるなら、余り悪質でない疲れかたで経過したい考えです。
 誰か行って体の様子その他お話するといいのですがほんとに不便ね、しかし、この頃つづけて書いた手紙は、割合よくそのこともつたえているのではないでしょうか。何時間も自分で話しつづけている必要はなく、比較的あっさり物を云う丈でやって来て居ります、それも疲れをすこし助けます。
 暑くなると、やはり間にそちらに行くのは無理ね。そう感じます。一区切りつけて、旅行に出る前に参ります。それが一番いいでしょう。旅行も行ってみたい半分、気億劫半分よ、正直なところ。何しろぽつんと一人だから。おとも[#「おとも」に傍点]の分を負担しにくいから。読みかきが自由でないからなのね、きっと。それにまだ外を散歩するというのも思うにまかせず。開成山は国男さんがすこし迷惑らしいし(今の駐在の人が名うての人で、村でも閉口しているそうで)私もそれでは恐縮ですし。とかく水不足でお湯に入れないのは切ないし。つまるところ上林か、鷹の巣という、頭に特効ありという温泉かどちらかへ行くでしょう。山形県と新潟の境のようなところにある鷹の巣というのは、割合まだ俗化してないらしく、物資は春頃問い合せたときは信州よりましのようでした。上林は鯉があったのに、今それがないのよ。すると全く魚なしです。野菜も豊富でないからそういう点は余りよくないのよ、米も。只こんな丈夫でない人しか思いつかないことがあるのですが、米沢まで直行だと夜寝台とって横になってゆけるのよ。それからのりかえて羽越線で二三時間らしいの。長野までは夜行では半端で、それから電車が二時間余でバスが猛烈なの。(こんなにかいて反りみるに、どうも私は上林は知ったところだからついそちらへ引かれるが、鷹の巣の方がよさそうだと自分を納得させたくて、くどくどやっているらしいわ)春から又一かわりいたしましたから又手紙を出してきいてみましょう、きめるのはその上でのこと。何もそうてん[#「てん」に傍点]からきめてかからないでもいいけれど、夏でしょう? だから弱るのよとてもこむし。汽車はこの頃、べん当等しろうとには買えないのよ。梅干握飯持参でなくては駄目。従って途中も一人では無理ということなのよ。今年島田は行けますまい。友ちゃんが十月にお産と云えば九月以降から十一月はふさがりますし。来年はもう父上の七回忌に当ります。六月にはよほどのことのない限り上りたいと考えていますから、今年はやめて、却って来年早くから行って御法事すまして六月十日までに帰れば六月十三日の母の十年祭に間に合うことが出来ます。明日は母の九年と英男の十五年祭で神官が来て祭典をいたします。夜は初めて(私も)外で家族だけ食事をします。足かけ三年目の夜の外はどんなでしょう、それはそれは暗いって。銀座なんて初めてですからさぞおどろくでしょう。
 魔法ビン火曜日ごろ届けます。けれども、もう少し待って、山梨からお医者様が帰ってからにしましょう、ましなのがあった方がよいから。森長さんへきくこと承知いたしました。『週刊朝日』もうちゃんと契約出来ましたから御安心下さい。二十日の分お送りいたします。隆治さんのこと考えていても仕方ないから、こんなものや何かでもとにかく送ろうと思います。『婦人朝日』は五月三十日で廃刊です。あの種のものはどんどんなくなります。岩波の文庫はもう殆どありません(出ないの)。
 魔法ビン来年広島でさがしてみましょう。案外あるかも知れないわ。金庫屋が樺太まで行ってものを仕入れるとききましたが、私たちも魔法ビンではなかなか内地を股にかけるわけとなりました。でもマホービンだからまだ面目が立つわ。細君がこっそり指輪買いに秋田辺へ行ったりして問題を起すよりは。きょうは、きのう出かけて(一日ずって)少々へばり日ですからこれでおやめ。週刊は人々の親切でとれました。

 六月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月十五日
 けさはひどい雨ふりでした。いい心地で雨の音をききながら、きょうは火曜日でくたびれ日故、朝七時半ごろおみおつけとパンと玉子を床でたべて又昼迄横になって居りました。
 今は午後二時。むし暑くなりました。書いていると腕が机にはりつきます、湿度九十九パーセントよ。そちらもべたついていやなお気持でしょう。きょうのような日にお風呂の番だと嬉しいことね。
 十三日には思い設けず自動車をよべたのでそれではと、何年ぶりかで青山へお参りしました。先の頃はいつも草むしり婆さんが、あの道この道と毎日まわっていて、広い道から横へ入るところにも砂利がさっぱりして居りました。もうそんなところにかける人手は足りないのね、草ボーボーで田舎の墓道のようでした。お墓そのものはきれいでしたが。いつの間にか何かの木の芽が実生から二三尺になっていて面白うございました。欅みたいな葉だったけれど。ぐるりと墓地下から青山一丁目へぬける新道が出来て、もとは墓地裏の谷間を電車が通っていたところが、カラリとした大きいカーブの一寸絵画風の新開路になりました。
 その通りは一丁目の消防署の側、教会の角へ出る道と通じて居ます。そこを通って銀座へ出ました。これも何年ぶりかの銀座ですが、やっぱりいろいろとおどろきました、オリンピックで、のむものなど二種しかない、アイスクリームなんてどこにもありません。女の子たちの着物の色が染色の関係からどれも泥絵具式に混濁していて、所謂キレイな色ほどひどく濁り、それに布地の節約からおそろいの服をつけている姉妹が大変目につきました。電車へのったら人々の持ちものが元とは大変ちがっていて、大抵の人が形のまとまらない、つまりぶかっこうな風呂敷包みかかえていて、四合ビンをもっている人も大分います。省線の夜野菜のはみでていない風呂敷包はないし、という話をきいたが、これではそうでしょう。ちょいちょいした粉だの菜っぱだのというものの包みは、正直に自分たちを主張していてスマートな形にばけるという術は知りませんから。
 荷物に表現される生活状態というものは生々しいものです。たとえば上野駅を出入りする荷物と東京駅とでは何というちがいだったでしょう。クールスキー停車場に出入りする樺製カバンの形と、ガール・デ・ノールのワードローブ・トランクとは何とちがったでしょう。でも、今日は東京駅も上野も互に近づきました。そして荷物として動く荷物は、世界中似ているかも知れないわ、カーキ色の被いをかけて。大したものであると、つくづく感じました。八時すぎ家へかえりましたが、月の青々とした光りに照らされた安全地帯と、月光で互の顔を見分ける銀座二丁目とをあなたに想像お出来なさいましょうか。安全地帯の端の赤い標識柱のわきに身をよせて若い女のひとがぼんやり立っているうしろからヒョッコリ男が現れると、私は何だかふつうでない――用心する瞬間の気になる、そんな銀座がわかるでしょうか。殆どすべての店は厳重に表戸をおろして居ります、夜店がマバラに、もうしまいかけの時のようにポツリポツリとあって、はだかの電球の光が低く流れています。似顔絵切りぬきが、覆いをかけた灯の下で街角にいて、たかっている人がすこしある。八時すぎ、日曜日、でももう深夜のようでフラフラしている人はない様子でした。出たらきっと驚く、と云われていたけれど、全く強い印象をうけました。銀座の表通りのような都会的消費の町は、こういうときほんとうに早く表情を変えますね。昼間は今でもやっぱりさもしき[#「さもしき」に傍点]ハイカラーがふらついているのでしょうが、すこしくらくなり、たのしみがなくなると、こそこそとどっかへ消えてしまう。戸塚や動坂や、ああいう、生活している人間がいる人間がある以上店も入用というところの方が、雰囲気が病的でなくて日常的でずっと健全であり人間らしさを保って居ます。銀座で何も実質的買物をする必要のない人々が東京に何十万といます、だから、銀座なんかが真先にがらんとするのは自然のなりゆきです。銀座が寂しくなったということはしばしば聞いたが、そのことで銀座の本質が示されて居ると云った人はありません。生活のしみじみとしたところを見落しがちなものね。
 宗達という装飾画家のこと御存じでしょうか。俵屋宗達と云って寛永年間の人、土佐派の出で光琳、光悦の先輩の由。この人の描いた源氏物語絵巻のエハガキを偶然みて実に気に入り、光琳のように装飾のための装飾、図面の固定化、様式化しすぎた大名菓子のような死んだところがなく、力づよく清新、男らしい構成力があって、つやがあって(大したほめ方でしょう?)本当に近頃うれしいものを知ったと思う画家です。この人は十分の技倆をもった写実家です。それを土台として、伊勢や源氏の絵巻をかいていて、コムポジションの頭のよさ、牛車をひいている牛や人間の重厚さ面白い。その人の絵は何故か余りエハガキなどにされなくて伝記もないようです。造形美術という雑誌に出ていたから、とうちへ泰子の服を縫いに
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