。一行おきにかくのです。するとそう気もちにひっかからないの、目も楽ですし。それを清書すればいいわけです。
その上、一度印刷してあるものをなおしてゆくという程度の仕事が大変ふさわしいのね、書き下すほど疲れず、しかも十分仕事としての緊張があり、且つ〆切りもなく又枚数もなおす範囲で自由で至極工合がようございます。もう一つ「杉子」という小説があるのよ、短篇で。『新女苑』に出したもの。これも夏の休みの間に満足ゆく迄手を入れて見ます。
却って、夜よく眠り、気分もよく食べるものも美味しいの。ぐみ頭の件は、いく分気にいらないところもあるが、決してさしつかえなく、いく分改良して居ります。目白のお医者様に寿江子からきいてもらったら、よく分らないが、あっそれは、とすぐ見当のついた風だったそうです。会って話すということでしたがやたらに忙しくて、まだ見えません。あすこでは女の子が生れました。戸台さんという家には初めて男の子が生れました。女の子の名は晴子だそうです。どっちの赤ちゃんもまだ見ませんが。あすこでは悠吉さんという二番目の、私の名づけ子が秀逸よ。
これをかいている机に坐って、みどり色の原稿紙に、製図用の五Bでかく様子が御想像になれますか。坐ってものをかくことも馴れないと、よそへ行ってチャブ台で何かするのに困るでしょう? あなたはずっと坐る机で、くたびれると、よく畳へ背中をおのばしになったことね。坐る机だと、休むときああしたくなりますね、私はふとんをのべてあるの、そして背中がつまると、そこに横になります。
いろいろの道具だてばかり云っている人の間にいると、どんなに其が一つの不便で、不幸でさえあるかと思い、自分はあなたのおっしゃる口真似ではないが、全く、机、ふとん、紙、エン筆さえあれば安心してやってゆける習慣をもちたいと思います。小説というものは、どんなところででもよまれるべきものですから、云わばどんなところででもかかれていいわけなのでしょう。又面白いことに、そういう風に作者の腹と紙とが同一水平でとけなければいい小説も出来ないところもあったりして。
ぐみ頭のことにふれ、それもわるくないと書きましたけれど、負けおしみではないようです。そして、こんな風に思うの。私はこれから主として小説だけ書き、ほかの作家とまるでどこかちがう小説をかきたいものだと。つまり小説しか書けない頭ではなくてかく小説。それには何かの面白さ、構造、規模があるでしょう、と。なお可笑しいのは、私は詩的な要素をたっぷりもっているが、詩人ではないということなの。だって、段々体が平常に近くなって来たら、御覧のとおり、私は私たち愛唱の詩を散文で話しはじめ、一ころのように眠れない頭にこりかたまった一行一行をおめにかけることはなくなってしまったのですもの。二月下旬「よろこび」と「円き盃」という二つをかいてからは一つもかきません。散文で印象がうつされます。(ここまで書いたら夕飯、そのあとへ久々で目白のお医者が見えました。私のグミ頭や顔がしびれるようなのは、体が或る程度まで癒って来たことによるリアクションの由。生理上の反動は、或る丈夫さがつかなければ生じない由。微妙なものね。実に面白く思いました。だから過労しないようにさえすれば、あれこれの些細な苦情は出たり消えたりする空の雲のとおりで降ったら傘をさそうと思っておく程度でいいらしいのよ。)
いろいろかきたいことがたまっているから又改めて一つかき、これはこれでおやめにします。「衛生学」は未刊の方が事実のようです。本を買うのは予約になる由です。本屋でカタログを出すのででもありましょう。では又あしたね。久しぶりに湯上りでいい気持。日曜の夜咲、国、子供三人その他二人の一連隊がかえって来て一週間ほどいるそうです。
六月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月九日
きょうはむしあつい膏汗《あぶらあせ》のにじむ日です。こういう日になると苦しかった体を思いおこし閉口です。七十八度ほどです。
ペンさんはかつらの島田をのっけて、かり着の紋付きをきてお嫁さんになるのだそうです。なかなか大変と同情します、当然そういう恰好をするものとぐるりできめている由。まあ一生にいく度もないのだから、それでケンカしてもいられないわけでしょう。旦那さんになる人は、何しろ福島市というようなところの日銀支店づめであったし、通俗的ととのった方らしいから、若手名士で、田舎で名士になったとき、必ずつきもののおきまり宴会で、あながち潔癖というのでもないのでしょう、おかみさんとのことだって大して、不動の選択というのでもなかったらしいから。別の友人に、結婚したものかどうかと、もうきまった筈のとき相談したと云って大分ヒンシュクを受けているらしいようですし。
女の人の側として、絶対手ばなせないというわけでしたろう。そして、やっと形をつけるところまで漕ぎつけたのですから。私はこの一人の若いうしろだてというもののない勝気な女の人の人生への処しかたを眺め、いろいろと学ぶところがありました。しのぎを削るという言葉は、こういう人の無言のこういう場合にもあるものであると知りました。よくなろうという向上心で、本の話もする人にひかれ、その人と、処世上まとまった体面のある生活をつくるために、その過程に人としてひどい抜目ないこわい位のいやな人になるというのは何という悲惨でしょう。薄弱な男をつかんではなさず良人にしたてる若い女の骨折りはきつくて、全く世俗的な努力でちょっとまともに見かねます。それでもこの女のひとの場合、その男にふられた形になるよりは、成功ということで自分も満足するのでしょう。ですから、大変ね、ということは只家のものが大変ねという位のことではないわけよ。是が非でもスラムから這いのぼろうとするこういう努力の方向は、私に無限の感想をもたらしますから。
『週刊朝日』は、予約出来ることになりました。こちらは安心です。『毎日』の方何とかしたいものです。これは近いうちに何とかしてみます。『独語文化』まだもって来ません(本や)どうしたかしら。
マホー瓶は、弱りねえ。そういう修繕の方法はどこも対手にしないし、第一湯でビンがすぐわれて(普通のビンは、ガラスが厚く、そして不平均だからの由)全く意味ないというので、目白のお医者さんが地方へ出かけるので、そちらをしらべて見てくれるそうです。そちらでもどうぞよろしく。あれはコップがアルマイトだし、なかなかいいものなのに惜しかったことね。
きょうは、多賀ちゃんにこの冬あなたの召す着物縫うことをたのんで送りました。毎年、厚い綿入れをつくるのに苦労して来たところ、この節は国民の標準服ということで大人は冬でも袷ということになりましたから、仕立屋がごたく並べる機会がふえたわけです。まるで暖いものを着せたがる私がわるいようであんまりだから、今年は多賀ちゃんがひとのものも縫っているというから、たのむことにいたしました。お着になるのもいい心持でしょう、それは本当にあなたが心持よくと思って縫われたものですものね。うれしいと思います。
電車が十銭一循環となって四度までのりかえがきき、五銭足してバスと連絡したり定期をつかえたりしたのがなくなったこと御存じでしょうか。この間一寸した買物があって、迎えに来た書生さんつれて肴町まで二停留場か乗ったら二十銭でびっくりしました。すぐ一円はかかりますね。特急その他坐席指定もなくなりました。そして省線のように立つところのついた汽車が走るようになっているそうです。
森長さんのは木曜日に届けました。手紙つけて。しかし何とも音沙汰なしです。おっしゃった通り、例年のとおりしたのですが、よかったのかしら。物足りないのかしら。いつも手紙よこしたりしていたから何だか調子がかわって感じられますが。いかがなものでしょうね。
隆治さんの方へ雑誌や本はゆくことがわかりました。
『世界知識』というの、今出ているの? こんど自分で南天堂へでも行っていろいろ注文をまとめ、整理しなくては。そのときよさそうな本もさがしましょう。自分で見なくては何だか全く思うにまかせませんから。どうかもう少しお待ち下さい。木曜と月曜との間は、少し時間があって休まりますから、来週ごろ行って見ましょう。
夜具、前へお願いいたします。本月の末夏ぶとん届けます、そのとき冬のをもち帰ってもらいますから。夏ぶとんは縫い直してないのだけれど、今年はかんべんしていただきます。カバーはパリッとしたのつけますから、ね。毛布も、もう一枚の方、洗いましょうね。七月八月九月の中頃まで私がいないと、実に不便で、すまないと思います。寿江はもうどこへか行くのだそうですし、せめて一度ぐらい行ってもらえるといいのだけれども。
不思議なものね、生活をこまかく知って、病気の世話もあれだけしてくれたのだから、生活の必要事が会得されて、事務的にやって貰えそうなのに、全く反対というのは。気分による生きかたというところ、どうしたって抜けないで寧ろ年のせいでかたまって来る、これは殆ど腹立たしいことです。死ぬ生きるという時しか奮起しない。だから私はよく半ば苦笑していうのよ。この家ではひっくり返りでもしない限り、本気にならない、と。何という目標なしに生きることも、多くの人の人生がそうと云えばそうかも知れないが、働かなければ食えないということのない、東京にいなければならないというのでもない、戦争へ行かなければならないというのでもない、ましてや火のない冬の石室住居になんか耐える必要もない、という人々の生活には、何とも云えないチカンがあって、それこそ根本の病源であると感じます。
私は何とかして仕事しなければならない、体癒さなければならない、出かけねばならない。なければならないことがあるとないとで、人間はおどろくべき差異を生じます。自分を支配して生きるか、自分に使い倒されて生死するか、その違いが生じ、つまるところでは、生活しているか、いないか、というところに立ちいたります。沁々目を瞠ります。そういう生活を今日快適にやるには巨大な財力が入用です。それがない。ですから快適ではない。生活の輪を何とかおさまるところまで縮少して、家の中をコタコタこねまわして気をまぎらすが、時代の大きい力は不安となって漠然いつも周囲にあり、一層気分的になってゆきます。これは消極の廓大です。こういう車輪のまわりかたを一方に見、一方では、所謂積極に廻転さそうとして若い娘《ムスメ》が、何とも云えない眼を光らせるのを見ます。それは互に反撥し合うの。
私はどっちにも左袒出来ません。人間をつまらなくしてしまうモメントというものは何と毎日に溢れているでしょう。私にそういうモメントがないというのではないのですし。小説でしか書けないわけとお思いになるでしょう? 小説を書こうと思うわけとお考えになるでしょう、こういう歴史の時期に、経済力をドシドシ弱化されつつある中流の生活と、土台堅気な勤労者の気風なく生活を流して来た小市民のレイ細な生活における成り上らんとする欲望の型とはごく典型的です。もの凄じく、しかも深い人生図絵の感興があります。
目白のお医者様などは子供三人、おばあさん、その他小さい家にパンパンで、坐るところのないような中に、子供をねかしつけつつなかなか根本的な研究労作をやっているようです。そういう生活ぶりの話が出ても、一向感覚ないのだから、私は生活のもたらす愚鈍さというものについてはげしく感じざるを得ないわけです。
でも私ももうもとのように素朴に我から弾け出てはしまわず、ここにある私にとって健全なもの、子供たちとの接触、何人かの家族がいるということに在る私の感情のふくらみなど、十分評価し、私がいるということで、太郎もほかのひとも、自分たち以外の生活態度も在ることを知るのは、全く意味ないことでもないだろうと思い、落付いて、快活で、かんしゃくと愛嬌とを交々にやって居ります。本当に巣とはよく云ったものですね、ツルゲーネフは貴族にだけつけて小説の題としたが。あれ
前へ
次へ
全44ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング