アリズムで、自然主義で描いて、わめく顔、ぞっくり揃った剣先とかむしろ動物的にかき、効果をクラシックに迄持続させる芸術性にかけて居ります、いやなきたない絵をかきます、しかし藤田はそういう要求でかくものに古典たらしめようと意気ごんでいるし、その努力のために芸術となっています。この事実を、同業人は何と見ているでしょうか。
 文学では、やはり同じ問題があります。もっとむずかしく複雑ですが。報道班として南へ行ったのは何人もいるが、人間として文学に新たな一歩をふみ出したのは何人でしょう。
 尾崎士郎は、よく経験したらしく、日記を集めたものをよむと、文学について、人物について困惑されるところが生じて来て居ります。しかし思うことは、ね、そういう成長と同時に、文学者は(現代人)深い感慨にうたれたとき、何故みんな漢文調になるのでしょうか、ということです。なるというよりもおのずからならざるを得ないのはどうしてでしょう。尾崎にしろそうです。文学論、人物論そのものは、大きくなっています。腰もすわって来ている。南まで行って女買いしたくもないだけのところがあります。だが、漢文調になるのよ。
 日本の文化伝統と感情の
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