る情熱も、感情の化学においては等価値の原素としてみている、ということにツワイクは傾倒して居ります。しかし、これらの考えの中にはたくさんの未だ不明確なものがつめこまれていて、バルザックの所謂等価値論も、今日の理性は、やはりそこに十九世紀を見出します。ツワイクは一見客観的で、しかも十分客観的ではない観察力のために、自分たちの時代と自分の生涯というものを、真に歴史的には生きぬけなかったということが、「フーシェ」をよんでうなずけます。そして文学の世界のおそろしさ、そこにかかる霧のなかなか払いがたくて、惜しい人間の精神をも餌食にする力を感じます。文学なんかこそ、最も強健な精神の所産であるべきです。しかしツワイクは云わば、その自身の限界を極限まで書き、生き、死した文学者として、やはり十分に評価され、帽子をとって挨拶されるべき人間でした。彼は自身を箇人的に完成したものとして知りすぎていたのですね。歴史の歩幅は大きく一箇人の完成は現代において破れ得るものであり、破りかたに永い未来への命があるということは感じなかったのでしょう。彼の緻密さ動向観察、光彩、精神の高さは、ヨーロッパの昨日までの一高峰であった
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