べったらそれぎりの馬ではありません。牛の部よ、すべったにしろこの坂をのぼると思えば、膝をついてものぼります、牛はそうやって馬にのぼれないところをのぼり終せる動物です。私はその牛をいとしいと思うの。牛には牡ばかりでなく牝もあって、その牝にだってその健気な天質は賦《あた》えられているでしょう、私は荷牛でいいの。立派な牛舎に桃色の乳房をぽってりと垂らしてルーベンスの描いた女のように、つやつやと見事にねそべっていられず、自分のしっぽで、べたくそのすこしついたおしりの蠅を追いながらのたのたといろんな坂や谷を歩いてゆく、そういう牛でいいと思います。そして、そんな道を歩くについては、まことに比類ない牛飼いにはげまされつつ自分の勘で一つ一つの足は前へ進めてもいるのではないでしょうか。
こういう話はつまり文学なら文学に対する粘りの表現の、あの側この側の話にほかなりません。存在しつづけるということ、仏教はテクニカルになかなかぬけ目なく、仏はいつも菩薩という人間の生活と混交し説明し、示顕してゆく行動者をもっています。文学精神にしろそういうところもあるでしょう。
一身の儲けのために文学にしがみつく、その外
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