り感じたりしたのかもしれないけれども、あのうるさい無趣味さに平気になるだけでも、そこの住人はよほど魯鈍ならざるを得なかったと感じさせます。こういう様式を宮殿として見て来ているブルノー・タウトなんかが、日本へ来て桂離宮などをよい趣味とこころだけが語られている――その前には何でももって来られる空間――として驚異するのは当然であると思いました。タウトは多くの「日本の知己」に洩れず、古典のうちに丈日本があると云っていて、今日を真面目に生きている日本人を苦笑せしめます。
演習の終ったのが八時すぎ。それから又床に入りおひる迄。疲れて風邪のようにズクズクです。しかし、やはりやってみるもので、靴のしゃんとしたのがない不便さや、その反対に、お古レインコートの上っぱりが至極実際的なことや、いろいろ学びます。
環境がいろいろと変るなかで――環境そのものが、理想的だというようなことはあり得ないのですから――私がいつも自分の線を失わないようにと心づけて下さることは、ありがたいと思います。モロアの本について云っていらっしゃる最後の一行は、深い意味をもって居ります。全く人の一生と一巻の本とは最後に到って真価の歴然とするものです。
しかし、何と多くのものが、一生の半ばで、自分の一生というものをとり落してしまうでしょう。持ちつづける手の力を失ってしまうでしょう。作家で云えば、其は、仕事が蓄積された感じをもった瞬間から始るのだと思います、事実は反対です。本当の作家なら、一つの作品はもう明日の自分を支える力ではないこと、それが書かれてしまったということで、もう自分の今日の足の下にはないことを痛切に感じているわけなのですが。旅にやんで夢は枯野をかけめぐる、という句を卑俗には、超人情のように云うが、本当は、芸術というものが常に限界を突破しつつあるもの[#「しつつあるもの」に傍点]だということの感性的な表現――そこに芭蕉の時代の武士出身者としてのニュアンスが濃くある表現――ではないでしょうか。芸術家として、芭蕉は勇気がありました。あの時代に、夢は枯野をかけめぐる、と表現されたものが、時をへだてては、わたしが今、この紙の横においてよみつつ書いている、そのような忠告やはげましとなっていることの意味ふかさ。後者を、芸術のそとのことのように思う、非芸術さ、或は職業によって固定された感受性の鈍磨。
もしや、もし
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