て居りましたが、ここの連中は一寸風変りで、何だかちっとも切実でないの、又買えると思っているのか、それとも、自分が何一つ謂わば骨折って買って便利して暮しているというものがない為か、にげてゆく先に一応はととのっているというからか、何もしないのよ。すこし運ぶと、もう一杯だ一杯だと云うの。だから、私は全く別箇に、親切な友人たちの助力で、どうしてもいるものは、ともかく比較の上で安全の多いところへ移すことにして、疲れない程々にやって居ります、あなたの冬着を心配してそれ丈はどうやら一番がけにうつしましたが。私にしろやはりふとんもきものもなくては、ね。金がないのなら、日常のものは大事ですから。私は、自分たちは一単位として、最少限の生活は又やれるようにと考えて居ります。
 バルザックのこと。あなたもなかなか痛烈ですね、そんなに考えてもリディキュラスという風に描き出されて、私は何と御挨拶出来ましょう、そんな愚劣さが(読者として)即ちブランカの態度だよ、という程でもないのでしょう? 私は、そうだと思いかねるわ。御憫察下さい。
「あら皮」はおよみになったのね。作者の研究のために大切な一作でしょうが、作としてはつまりませんね。時代的な心理(あの人の時代の)の問題を、哲学と混同したり、人物は何だか人為的で。文章も初めのゴーチェ張りは閉口です、「幻滅」はあれとはずっとましです。一人の作家が、「時代の心理[#「心理」に傍点]で動く」限界ということも文学発展史上の一つのテーマではないのでしょうか、ドストイェフスキー、バルザック、特にバルザックなんか最大の限界まで行っているのではないでしょうか、リアリストとロマンティシズムの奇々怪々な混乱においても。後代の、ことに、最近十年間の新しい文学の作家たちは、心理だけにモティーヴをおいて自身の生活を導いていないし、同様に自分たちの文学のモティーヴともしていません。それ故の、その大きい発展の故の苦悩、寡作というものがあるのです。新旧の文学の本質的なちがいは、こんなところにもあるのね。新しい作家たちと云えども、余り明確にこの線を自身の文学に引き得ないようなところがあって、いろんなところへずり込んだのね。これは、今かいているうちに自分にもはっきりして来たことですが、なかなか内容がある問題ですね。
 新しい文学は、全く、心理描写だけで満足しないわ、ね。心理から入って、
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