金曜日の夜電話で日曜に来ないか、という招待でした。両家から。どうもそのときはあちらでプランがあるらしいので、久しい前から云われていたことだし、寒くならないうちきれいな樹々の色も見たくて行く約束しました。そして、夜かえるのは道があぶないし疲れるから泊るということにして。
 日曜日は七五三の日だったのね。あっちの女の子たちが五つですし。二時頃出たら四時すぎ着きました。車台が減っているのでこんなにかかったのね。降りたら、ヤーおばちゃんが来た! オバチャン! オバチャン! という声々の歓迎で、大きい母さん鶏のようにおせんさんが笑っているの。子供たちのおみやげはエホン、繩とび、リンゴ(大人へ一ヶずつきっちり)岩手から送ってくれ。包をもってくれてブラブラ辿りついて、夜まで卯女の家にいました。父さんも元気。あなたの病気を話そのほか。すこし話が経過をもっていることだと「一体いつまで知っているんだったっけか」という工合で両家の総員七人と私。泰子の二階で泊りました。ゆっくり眠って父さんは外出。母さんと子供たちとで豪徳寺の中を散歩しました。銀杏と紅葉が見盛りで、実にいい気持でした。いかにも十一月のおだやかな飽和したような天気でしたから。
 夕飯後帰る予定だったら、栄さん夫妻が来るから待つということになって、そしたら雨になりました。
 栄さんたちおそくよく来たと思ったら、話しがあったからだったのね。私がおどろくといけないと思って、何も云わず、雨の中暗いのに、あした真直行く方がよいということに決定。
 そして、あの日出がけに、卯女の父さんからききました。だから丁度、あすこに坐ったころは、私の気持が益※[#二の字点、1−2−22]ふかくうけたショックを滲透させるときだったわけです。
 ずっと友達の間も全く妙になってしまっていて、栄さんもおせんさん夫婦も不快なことばかりつづいていたのでした。私のところへは、何しろ電話一つこの何年もかけて来ないという工合でしたから。段々生活がすさんでいるのをきいて、全く心痛していたし、いつかそのままでは続かないと予想していました。しかし、こんな工合に現れようとは。田村俊子が、生活をこわしてアメリカへ行ったのは、やはり四十ぐらいのときでした。出版屋を借りるだけ借りした上。それも同じです、生活を乱脈にしてしまって、作家としての信頼を低めてしまったこと、それも同じ
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