。このひとはこの頃明治初年のものをよみかえしたと見えて、題からして「柳橋新誌」ばりですし、作者というものを作品の中に登場させ、文体もその時代めいたニュアンスで内容は今日をとってかいて居ります。苦心のあともわかりますけれども、何となし今日の文学というものについて読者に感想を抱かせます。『文芸』の「まだ沈まずや定遠は」とともに。あの演説(今月号)にしろ、明治初期の文学がその未熟な向上性においてもっていた演説口調と、今日のとはまるでちがいますし。文学上の工夫というものが、体のひねりみたいなものになってしまうのは、この作家の著しい特徴ですね、「描写のうしろにねていられない」にしろ。ある敏感さがあります。神経質さがあります。それでくねりくねる。くねる運動は常に前進のみを意味しないというところに悲劇があるのね。あり体に申せば、今日、文学は工夫の域をこえてしまって居ります。工夫で何をかなさんやです。そのことを腹に入れて度胸を据えなければ、文学は文弱なるものに止ってしまうでしょう。もうすこし想像力が豊富だと強壮にもなれるのにね、この頃よくこんなエピソード思い出します。コーカサスの山越えをしようとして、丁度山脈のこちら側の終点をなすウラジカウカアズという町に夜つきました。ホテルは今時珍しい瓦斯燈で、あおい水の中に入ったようなガランとしたホールのところにいたら、フェーディンという作家が来合わせ、明日自分も越すが同行しないか、自動車は六人のりだというのよ。同意して朝玄関へ出たら四人と二人のりとが来ていて、フェーディンの女房が、四人の自分の仲間がわれるのをいやがってゴネるの。すると亭主はさすがに「だってあの人たちは女だよ」と小声でたしなめているのよ、きこえないか分らないと思って。私は大いに不愉快で、このメン鳥の横にのりました。段々山にかかってテレク河をさかのぼり、トルストイが「然しかの山々は」というリズミカルなリフレインで「コーカサス」を描き出したそのテレクをなつかしく眺めて山にさしかかりました。壮大な展望がはじまります。するとフェーディンが「素晴らしい!」と歎息しました。「トルストイ、レルモントフがコーカサスについては書いてしまった」すると女房が紅をつけた唇を動かして一言「やって御覧なさいよ」パプローヴィチェと云うの。私はフェーディンの歎息も女房のはげましもいかにも三文文士くさくて苦笑し
前へ 次へ
全220ページ中187ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング