が初めてわかれたときのような新しい駭きで其を発見し、発見したときはもうすっかり其にとらえられている自分を見出す、その工合が。そしてブランカは経験によってこう判断するのよ。こんなに自然に、ひかれつつ抵抗するというような感じ全くなしに、ひきよせられ捉えられている自分をじかに発見した以上は、もうまがいもなしの本ものだ、と。そこを行くしかない、と。そこを行くということを、作品的に云うと、「伸子」以後をかくということです。断片としてあちこちの角度から試みられてはいましたが。
永年かきたくて、何だか足の裏にしっかりした地盤が感じられなくてかけなかった伸子の父の最後の前後を一区切りとして先ずかきます。それから、「おもかげ」の部分のかかれていない面、伸子、母、弟、時代と三つのものを、全体のかかわり合いの中でかきます。
それから書きたいテーマがいくつかあるのよ。凄い景気でしょう。ブランカが、紺絣の筒袖着て、兵児帯しめて、メリケンコのグチャグチャしたの(名もつけ難し)をたべて、財布に五十二銭もって、そして斯くも光彩陸離なのを、どうぞどうぞ扇をあげて下さい。こうやって、私は生きている、からには、私の作品をかくのは至当です。一杯の力のこもった倍音の美しい彫刻的な作品をかくのが私だとすれば、それ以外に何をかくべきでしょう。
いつぞや小説を集にのせるのせないで、私は、重吉の千石舟ですから沈みませんと力んで、すこしあなたに笑われてしまったけれど笑われてよかったのね。あすこで笑われて、ホイ、と思って、それから又ごねごねこねまわしているうちに、私の俗気を日本がふっとばしてくれたというわけでしょうか。つくづく思うけれども、私もかなりの弱虫ね。毎月毎月かかなければならないものがあり、それは其として通ってゆきマイナスばかりでないと、何か心の底に蠢きを感じつつ、やはり、かたい地盤にさわる迄身を沈められないのですもの。そして、モラリストは私の作家をくってゆくのよ。そういう場合だって、作家の生涯から見れば一つの敗北であり、悲劇であり、境遇が人を押し流す力をつよく感じさせるに止まるものです(文学史的に見て、よ)
こんないろいろの点から見て、この間うちの読書は、一生のうちでやはり特別な意味をもって回想されると思います。「マリー・アントワネット」だとか「フーシェ」だとか一見濫読めいていて、それでもずっと一本何
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