風にしたがって、この芸術を庇護したのだそうです。大体イタリーがオペラの本場となったのは、宗教の本山がそこにあって、宗教劇、パントマイム、合唱団などの徐々の発展がルネッサンス時代に芸術的な高揚をとげて、法王だの大僧正だのが、作者となっていて、イタリー各地の貴族はその保護にあたっていて、ロレンゾ・ド・メディチは(レオナルドもいきさつがあった人)最大の人でした由。例のサヴォナロラは、そんなのは邪教だと云って獅子のように怒っていた由。タッソーね、あれもなかなか貢献して居ります。
カザリン・ド・メディチは一五八一年にパンタラジニという演出家をやとって、ジョイアス公の結婚式に夜の十時から朝の四時までぶっとおしの費用五百万フラン。女王や王女が海や河の女神として出演したのだそうです。(こういう伝統があるから、ツワイクの、マリイ・アントワネットにマリイが「フィガロの結婚」に出演したこと、そういう宮廷芝居の習慣をかいているのね。)
イギリスではエリザベス。面白いのはフランシス・ベーコンが、どっさりプロットと対話をかいたのですって。エリザベスの宮廷にいつも無駄口をきかず、陰気で、相当の陰謀家でせむしで、金も達者にためたベーコンが、ね。(だからシェクスピアはベーコンなりというような女学者も出たのでしょう)大体イギリスはバレーには冷淡だったのですって。シェクスピアのような人物は生まなかった由。フランスは歴代何かバレーのためにはやっていて、ルイ十四世は国民バレー研究所を立て、自分で二十六のバレーの主役を演じたそうです。音楽舞踊アカデミー設立が一六六一年で「人間悟性論」のロック(英)の愛人が、当時大人気者のサレーだったのだって。(こんな話はゴシップ的? そうでもないでしょう、ロックの時代の気風として、又イギリスがしかつめらしい皮をつけ乍らなかなか油断のならない通人をもっている証拠で面白いと思うの)
ミラノのスカラ座では一八四八年頃、オーストリア(ナポレオンからイタリーを奪った)とイタリー連邦との間の危機をしずめるため特別舞踊を上演して、大人気のエルスラー嬢が主役だったが、エルスラーはオーストリア人なのでその時命令された法王のメダルを頸からかけて踊ることを拒絶して、舞台の上で卒倒する迄イタリーの全観客にヒッスを浴せられたそうです。何十年か後の北部イタリーの夏も終ろうとするとき、スカラにトスカ
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