確立です。人間が理性をもつ生きものという最大の特長はその悟性でしょうから、例え表現上にしろ、ホグベンの概括は十分と云えないと思います。生産と科学の関係を見ようという健全な希望は、一方に、足をとられて機械論、或は反映論に陥っていて、これは根本において科学的でありません。それに奇妙なのは、ケプラーの法則について語っているとき、自然科学がケプラー(中世の大科学者)の時代に脱しかけていた段階を、社会科学はまだ間誤間誤していると云って、ロビン教授という私共国外のものには存在の意義のない経済学者の本から引用して批判したりしているのは、何か場はずれで、そのこと自身、著者の科学の底の浅さを示していて、大いに臭気紛々です。イギリスという国は妙でショウのような人間、チェスタトーンのような人間、ホグベンのような人を生みます、伝統の重さが、理性にのしかかっていて、それを反撥するところ迄は新鮮だが、はねのけ切る力はないために皮肉になるという風で、その皮肉もやがてポーズになって、そこに落付くから、結局はくだらない無力のものです。
文学においても科学においても、つまり人生に於て、皮肉を云っている人間は牙のない虎で、しんは、綿がつまっているようなもの也。
ホグベンの本は冨美ちゃんに教材としていいかとも思い、将来太郎のためにもいいかと思ったのですが、そうでもないよう。下巻は買いますまい。
科学事象の説明は(例のひき方は)生活に即し人類社会の進歩の段階に応じてその選択はされて居りますが、何となし根本に混乱が感じられます。
藤田嗣治の絵について感想がありますが、それは又この次にね。要は、日本の画壇は藤田をうるし屋(ぬるという点)とか何とか悪口したが、勉強していて、それは決して馬鹿に出来るものでないということです。軍用画においてです。この話は又別にゆっくり。あんなに降ってもきょうはこんなにむします。どんなに今年はきの子が豊作でしょう(!)
九月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
(同じ日)
きのこの話をしたらふと、お俊《しゅん》というひい婆さんを思い出しました。私が小さいときなくなったけれど、思い出すと炉ばたに丸く坐って、頭のてっぺんにぬれ手拭を畳んでのせていたのを思い出します。このおばあさんはしっかりもので、父は大学になっても朝風呂のために(この人が入る)手から血を出し
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