ましたけれども。
 例えばバクー大学にスキタイ文化の遺跡の集められたものがあって、これは日本の天平時代の美術と全く通じます。支那を通って日本に入ったのですが。タシケントの手前の蒙古にあったというギリシア文化と支那の文化の混交した古都のことなんか何も知らず、あのバクー大学の考古学参考室なんか、今考えると惜しいの惜しくないの。お察し下さい。大東亜という言葉の本当のよりどころは、そういう大きい文化の流れをとらえなければならない筈でしょうし。
 そのときは、ああ奈良朝の美術はここから来ていると漠然思ったきりで、ちっとも深く勉強しませんでした。惜しかったことね。固定して古典詮索の興味よりも、交易商業というようなことで古代の人間が不便な中を大きく動いたそこが面白いのね、ホグベンが再発見した支那から欧州への「|絹の道《シルク・ロード》」のようなものです。その道に当っていたらしいのですね。そのギリシアとペルシア支那文化のとけ合った全く独特の都会というのも。三蔵の大旅行の時代には在ったそうです。
「金髪のエクベルト」早速よみました。いかにもドイツの話ね、あの白っぽいドイツの金髪の色と灰色とみどりのような配合の物語ね。
 因果というようなモティーヴを兄妹の恋という形でつかまえるのは東西同じね。歌舞伎のお富と切られ与三郎の芝居で、お富は自分を救ったのが兄と知らず、どうして落城しないかと盛に手管をつくし、あんまり固いのでやけで与三といきさつを生じ、旦那たる兄から打ちあけられる場面があります。でもそこが日本の世話もので、金髪の騎士のような手のこんだ魔法は作用していないから、お富が「因果のほどもおそろしい、わたしゃあまあ穴でもあったらほんに入ってしまいたい」と袂で顔をかくすところを梅幸はうまくやりました。あの物語はドイツの空想の特徴が出て居りますね、風景の描写にしろ。面白いけれど、好きというのではないことねえ。きょうはこれからひるねをいたします。

 九月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十四日
 きのうは、あんな装束で、お笑いになったけれども、帰りは大した降りで、すっかり体まで雨がしみとおり、顔を流れて、前方が見にくいほどでした。眼鏡はいろいろのとき不便ね。雨のしぶきが傘の布地をとおしてこまかくついてしまうのよ。
 一般に女の装は随分かわりましたが、特にこの一ヵ月
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