たのですが、父さんは、手紙をよこされ、小さい男の子は自分が親代りになって育てるつもりだとのことです。これは婚家の気風の何かを無語のうちに反映していますし、娘の将来の生きかたについて思いなやんでいるとありました。娘さんは何か相談があるのでしょう。私のような後輩まで娘にとっての先輩としてそんなことも話す父親の情をつよく感じます。私たちも、情の深い父親をもって居りましたから。覚えていらして? スカンジナヴィアへ行かないかと云ったこと。あんな風でしたもの。それを云ったときの父の遠慮したような、心を砕いているような表情を時々思い起します。娘さんとしては又おのずから様々の感情でしょう、だって、父があんなに万全をつくして確保してくれようとした幸福、しっかり枠をつけてそこから逃げないようにしてくれた筈の幸福は、こんなにもあっさり破れたのですもの。父さんの力をもってしても及びがたき人生を痛感しているでしょう。
 そして私はこう考えるのよ。父さんの愛は常識に立ちすぎていて、幸福と世上に称する条件を、そのまま固定的に揃えて、それで幸福を確保しようとするところに悲劇があります。勇気をふるって、お前の不幸をも賭して幸福をつかまえて見よ、という境地に立っていません。勿論そこまで行くのは謂わば一つの禅機です。底を抜いたところがいります。娘さんの人柄に対してそういうのも無理かもしれません。しかし人生はそういうものよ、ね。そこに千年《ちとせ》の巖があるのです。巖に花も咲きます。つながりの工合だけで決定されてゆく人生というものは、謂わば果敢《はか》ないものですね。
 現実に身のふりかたをきめるとなって数々の困難のあることもよくわかります。身をすててこそ浮ぶ瀬もあれ、というのは古今集の表現で、時代的なニュアンスが濃いが、最も勇猛的な解釈もつくわけです。それに、そこまで自分を鍛えられるほどの底深い情熱をもち得る対象にめぐり合えるか合えないかということもまことにこれこそ千に一つの兼ね合いですものね。めぐり合ったとき、どうせ自分は未熟きわまるもので、もしもその対手がそこに可能を見出さなければ、それきりのことですもの。相互的というところもあるにはありますけれども。
 きょう、かえりに、あの辺はお祭りで、町の神輿《みこし》を献納するための最後の祭りでした。花笠だの揃いの法被《はっぴ》、赤い襷の鈴、男の児の白粉をつ
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