けもち、いろいろ空想して自分の好きなサラセン模様の音楽堂などをこしらえました。美しいものでした。その時、紙屑入れとして場内に牧羊神《パン》の山羊の頭のついた紙屑入れをつくり、市の公園課が気に入って、ずっと最近までそれが鉄に白エナメルをかけて置かれていましたが、金だから献納になり、今は一匹も居ないそうです。国男さんが気づいて話しました。その晩床に入ったらこんな歌が出ました。
最近二十何年間にたった二つのうたと云えば先ず珍品に属しましょうか。
『文芸』のNの「混血児」。久しぶりでこのひとの書いたものをよみ、ちびた細筆で不足の絵具でカスカスにかかれているスケッチを見た感じでした。小説かいていた時の、よかれあしかれ、非常に低い素質のものながらぽってりとのびのよかった筆致は失われました。よくうれて、よくかせぐが、根に新しい境地が拓けていず、本当には文学がそのひとなりの前進をとげていないでああなのですね。文学くさいのが却っていやですね。あいまいな、鈍い、小さいそのくせ作家意識から神経を張ったような書きかたで。
尾崎士郎は「人生劇場」で浪花節のさわりめいた味を出したが、この頃、いろいろ経験したらその不用な感情の屈曲がとれて、感性が自分の脚で立つようになって、従って心情に湛える力が出来、同じながら火野のプロフェショナルにひねこびたのとは違った工合になって来ているようです。やっぱり細かいところで一人一人のちがいはあるものと感服いたします。
きのうもレンブラントの話していて、本ものを見たときどんな気がするということから、例えばベラスケスなんか何と美しい芸術だろうと思うし、ヴァン・ダイクなど実に人間も着物もうまく描いてある、成程と感心しますけれど、レンブラントの大作を見たときは何だか其が描いてあるという感じなんかしなくて、――絵の限界が分らないのね――その世界がそこに在るという気持、自分がその中に我もなく吸いよせられる感じ、逆に云えば、見た、見ているという広々として人生的にリアルな感じしかないのです。
これは何心なく話していて、自分でおどろきを新たにいたしました。レムブラントの内面のひろさふかさ、人生への誠実はそんなだったのね、不朽の大家たる全き本質です。
いきなり人生にひきこむような文学は少い。トルストイがえらい、バルザックがえらいという、そのえらさが多くは文学という人生の
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