るしきまりがあるし、どんなにかああついそこと思うのでしょうが、よってゆくというわけに行かないらしいの。それが犇《ひし》といづみ子にわかるのよ、ね。ですからいづみ子にしろ並々ならぬ心持で、どこかそこを通っている好ちゃんの上を思いやるという次第でしょう、いくとおりもの家並や街筋やに遮られて、好ちゃんの歩いてゆくその道は見えないにしろ、いづみ子の胸に、あの爽やかで力にみち、よろこびにみちた姿が映らないというわけがありません。いづみ子は日本の女らしい、いじらしい表現でこんな風に云って居ります。
わたしは日高川の清姫ですから(ユーモアもあるから、大したものよ)自分のからだで海も山も越すことはいといません。けれども、あのひとのおかれている義務のことを考えると、わたしが身をもむようにしたら却ってどんな思いでしょうと思われて、ほんとに私は行儀よいこになります。あのひとは(いづみ子は一番いとしいものの名は、やはり口に出せないたちの女なのね)それがわかって居るとお思いになりますか。あやしいと思うのよ。敏感だけれども鷹揚《オーヨー》なような気なのですもの。(私が思うに、これはいづみ子の感ちがいね。あなたも私に御同感でしょう? 好ちゃんという人物は相当なものですから、自分の腕のなかにゆったりといづみ子を抱括していて、一寸した彼女の身じろぎだってそれはみんなちゃんと感じとられ応えられているのだわ。いづみ子の表現は、計らず、彼女の愛くるしい慾ばりぶりを率直に示して居て面白く思われます)
いずれ好ちゃんもたよりよこしましょう。私の方へよりもあなたのところへ書くかもしれないわね、その方が自然でしょうからね。幼な馴染などというものは、世間では惰性的結合になって新鮮さを失いがちですが、あの二人は全然ちがって、二人で感情に目ざめ、育て合い、日々新なりという工合らしいから、つまりは一組の天才たちなのかもしれないわ。昔のひとが良人は天、妻は地なりと云うことを申しましたが、そういう宇宙的献身の見事さや潤沢さは、むしろディオニソス風の色彩のゆたかさで、しかも近代の精神の明るさに貫かれ、全然新種の人間歓喜の一典型でしょう。私も小説家に生れたからには、あますところなくそういう美しさ、よろこび、光について描きたいことね。そういう美は、そのものとして切りはなされて在るのではなくて、全生活行動の強大な脈うつリズムとと
前へ
次へ
全220ページ中126ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング