この作家の作品が、不当に批評を蒙ったことから、柳浪はひっこみました。私は決して決してひっこみません。重吉(これはその雄々しい船頭の本名です、この男は三河の農夫の子で、大漂流の間、おどろくべき立派な態度で良識を発揮しました)の千石船は黒潮にも赤潮にも摧《くだ》かれずに漂う力をもっていることを願って居ります。自分が書くようなものでないものを書かなければならなければ仕方がないが、さもない限り、生活のためにも仕事の窓はあけておかなくてはなりますまい。
 この当然な努力が、様々の奇妙な現象にぶつかるというのが、時代性でしょう。いろんな人がいろんな化物に出会って来ました。魔女だと云われて、単に不幸で孤独のためすこし頭の変になった老母が、宗教裁判にかけられそこなったり、地球は動くと云って命をとられそこなったり。人間て何という高貴な、何という愚劣なものでしょう。
 私があんまり緻密な頭でなくて、時々スリップして、便宜主義になるときがあるから、きっといつも危かしい足どりにお見えになるのでしょうとすみません。全くその点は意気揚々としたことは云えないのだけれども、でも私は馬ではなくてよ。足はすべらしても、すべったらそれぎりの馬ではありません。牛の部よ、すべったにしろこの坂をのぼると思えば、膝をついてものぼります、牛はそうやって馬にのぼれないところをのぼり終せる動物です。私はその牛をいとしいと思うの。牛には牡ばかりでなく牝もあって、その牝にだってその健気な天質は賦《あた》えられているでしょう、私は荷牛でいいの。立派な牛舎に桃色の乳房をぽってりと垂らしてルーベンスの描いた女のように、つやつやと見事にねそべっていられず、自分のしっぽで、べたくそのすこしついたおしりの蠅を追いながらのたのたといろんな坂や谷を歩いてゆく、そういう牛でいいと思います。そして、そんな道を歩くについては、まことに比類ない牛飼いにはげまされつつ自分の勘で一つ一つの足は前へ進めてもいるのではないでしょうか。
 こういう話はつまり文学なら文学に対する粘りの表現の、あの側この側の話にほかなりません。存在しつづけるということ、仏教はテクニカルになかなかぬけ目なく、仏はいつも菩薩という人間の生活と混交し説明し、示顕してゆく行動者をもっています。文学精神にしろそういうところもあるでしょう。
 一身の儲けのために文学にしがみつく、その外
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