であると感じます。
私は何とかして仕事しなければならない、体癒さなければならない、出かけねばならない。なければならないことがあるとないとで、人間はおどろくべき差異を生じます。自分を支配して生きるか、自分に使い倒されて生死するか、その違いが生じ、つまるところでは、生活しているか、いないか、というところに立ちいたります。沁々目を瞠ります。そういう生活を今日快適にやるには巨大な財力が入用です。それがない。ですから快適ではない。生活の輪を何とかおさまるところまで縮少して、家の中をコタコタこねまわして気をまぎらすが、時代の大きい力は不安となって漠然いつも周囲にあり、一層気分的になってゆきます。これは消極の廓大です。こういう車輪のまわりかたを一方に見、一方では、所謂積極に廻転さそうとして若い娘《ムスメ》が、何とも云えない眼を光らせるのを見ます。それは互に反撥し合うの。
私はどっちにも左袒出来ません。人間をつまらなくしてしまうモメントというものは何と毎日に溢れているでしょう。私にそういうモメントがないというのではないのですし。小説でしか書けないわけとお思いになるでしょう? 小説を書こうと思うわけとお考えになるでしょう、こういう歴史の時期に、経済力をドシドシ弱化されつつある中流の生活と、土台堅気な勤労者の気風なく生活を流して来た小市民のレイ細な生活における成り上らんとする欲望の型とはごく典型的です。もの凄じく、しかも深い人生図絵の感興があります。
目白のお医者様などは子供三人、おばあさん、その他小さい家にパンパンで、坐るところのないような中に、子供をねかしつけつつなかなか根本的な研究労作をやっているようです。そういう生活ぶりの話が出ても、一向感覚ないのだから、私は生活のもたらす愚鈍さというものについてはげしく感じざるを得ないわけです。
でも私ももうもとのように素朴に我から弾け出てはしまわず、ここにある私にとって健全なもの、子供たちとの接触、何人かの家族がいるということに在る私の感情のふくらみなど、十分評価し、私がいるということで、太郎もほかのひとも、自分たち以外の生活態度も在ることを知るのは、全く意味ないことでもないだろうと思い、落付いて、快活で、かんしゃくと愛嬌とを交々にやって居ります。本当に巣とはよく云ったものですね、ツルゲーネフは貴族にだけつけて小説の題としたが。あれ
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