すべきです。支那の人は士は己を知るものの為に死す、という表現を与えているけれども。こんな三国志的表現はもっと爽快なもっと色調あふれ、諧調ある近代の精神の中に一層複雑な内容で輝いているのでしょう。
 人間が病気から徐々になおってゆくとき、生活力が少しずつ少しずつたまって来るとき、人生を又新しいもののように受とり、醇朴に近づき、謙遜にもなるのは、うれしくたのしい思いですね。私が近頃感じている仕合わせにはこういう要素もあるの。そして、自分がこんなにひどく損傷され、まだこんなひどく不自由で、それでこういうよろこばしい感情を折々、寧ろ屡※[#二の字点、1−2−22]持てるのは、どういうわけかとそのことについて真面目に熟考するのです。丁度五月頃の夕方のトワイライトは、ものの上にある光の反射をなくするので様々の色が却って細かく見えるように、私の今の程度の弱さが、自分の心やひとの心のニュアンスをしみじみと眺め、それを映すのでしょう。私の頭は不快な疲れというものをこれまで知りませんでした。柔軟で自分の活々とした働きをたのしむように根気よく、よく役に立ったが、今は疲れ易くその疲れかたは苦しくいやなものです。頭が熟したぐみ[#「ぐみ」に傍点]の果のように充血して重く変にぼってり軟くなった感じで。これは私を悲しませます。相当に悄気させます。少年の皮膚のようにしまって艷があって、きめのこまかい感じが忘られず、いつそう戻るか、あるいはもうそうはならないのか。そう思うの。悄気て悲しい心持でそう思うけれども、又こうも気をとり直します。私のそういう生理的な丈夫さは、或は私をこれ迄能才者という範囲に止めていたかもしれないと。生来の明るい迅さで或は物ごとの表面のありようをすばやくつかみ理解したという特徴を与えていたのかもしれない、と。今私はぐみ[#「ぐみ」に傍点]の頭になって、時々は苦しく、そのくるしさが悲しいというようなのは、ちっとも自分の生来のものの活動を我知らずたのしむ、或はそれにひきずられるということではないから却ってのろく、じっくりと物事を追って眺めて、心情的になって或は芸術家としてはやはりプラスなのかもしれない、と。私がもしかりにいつか癒って又つやのいい頭になれたとして、ぐみ[#「ぐみ」に傍点]の頭になったこと、その時季、それを私は徒費しまいと思って居ります。
 大きい石を磨くには巨大な研石
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