皆がお医者と相談して寝椅子を考えて、それを造ってくれようとしていますが、この頃は何しろ蝶番《ちょうつがい》がちゃんとしたのが無いので、ナカナカ造れません。今ねているのは下の座敷の、家中で一番涼しい処です、夜は雨戸を開けてねます。大変息が楽です、私に栄養のある物を食べさせてくれようとする苦心が一通りでないので大いに恐縮しています、スエ子さんが命の親の権利を充分に行使して頭が上がりません、盛んに一皮むける処で痒がっています。時々吹くこの風がそちらにも通っているのでしょうか、くれぐれお大切に。(二)[#「(二)」は縦中横]
八月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 川島理一郎筆「金剛山の秋」(一)[#「(一)」は縦中横]、和田三造筆「阿里山の暮色」(二)[#「(二)」は縦中横]、岡田三郎助筆「高森峠より見たる阿蘇山」(三)[#「(三)」は縦中横]の絵はがき)〕
(一)[#「(一)」は縦中横]十五日、昨日の朝のお手紙今朝着きました、オリザビトンと一緒に送った薬は理研のビタスであったそうです。お手許には別なのが届きましたか、若しそうだったら何かの間違いでしょう。名札でも取れたのでしょうか、お調べ下さい。隆治さんの事は腸の系統ではないかと思って随分気にして居りましたが、マラリヤではやはり後へ長く残る病気で決して安心もなりませんね、帰ってから再発して体質的に影響も多いから。送る本は私も時々心に浮べていましたが、中々これぞと思うものがなくて、もう少したったら岩波文庫で『ピーター・シンプル』というのが下巻まで揃ったら送れるだろうと思っています、そちらの目が大変に治りにくいながら悪質のものでなかったのは本当に嬉しいと思います、目は随分こたえますから。私の視力は新聞の大見出しはみえるけれど他は駄目です。体の治り方がテンポが不揃いで、いくらか起きかえる事が出来るようになっても目はずっとおくれているというような工合です。何しろ普段から左右がチンバな乱視で困っていたから。今度ももう少しのところで視力が根本的に犯される危険があったようです。
(二)[#「(二)」は縦中横]気をのんきにしているからどうやらこらえられますが、全くみえないというのではなくて物象は映っていて焦点が左右まちまちでコントロールがきかないというのは至って不安な状態です。然しこの頃は目をあけている事が多くなったから、それだけ平均が恢復してきたのだというお医者の説です。口の妙な感じは左のすみに残っているだけです。意識が恢復してくる過程は大変面白くて、決して通俗小説に書かれているような段々夜が明けるような調子のものではないことがわかりました。真暗な中にローソクの焔のような一、二点の明るいところが出来てその部分だけがはっきりとして後は全部暗いまんま、そういう点が少しずつ増えて行ってやがて互いに連がって一日の大部分がわかった状態として現われてくるので、意識が戻った後も始めの内はまるでわからない記憶にない事の方がどっさりです。一番始めの明るい点に映ったのはお医者様の顔で、親みのあるその顔は小さい小さいミニチュアールの様にみえました、昏睡をしている人間というものは大変人間離れがしてみえるそうです。そういう体の中で命と死とが微妙に交流していた時期の話は自分の今日の命の伝説時代で、珍らしく聞きます。看護婦を厭だと夢中で首を振ったそうです。
(三)[#「(三)」は縦中横]でも今は正気だからそんなわからず屋は言わないで頼む事にしましたが、さて、人がなくて昨日は待呆けました。寿江子とこの間一寸お使いに行った娘さんが代りばんこに大奮闘ですが、まだ自分では何一つ出来ない人を世話するのだから、心ざしはいじらしい程ですが素人ではヘバリ方がひどくて気の毒です。『寡婦マルタ』は家にあった筈ですからみつけてお送りします。本が不自由でなかったのは幸せでした。北氷洋の流氷の上で科学的実験をした人達の記録などは随分面白く読みました。最近『微生物を追う人々』という世界的な名著の翻訳が出ましたからお目にかけましょう。私は今寝床の上に仰向いてこんな話しをしているところへ寿江子が足許にヘバリついて涼しくない光景です。昨日から少しずつ「ピーター・シンプル」を読んでもらっています。この話は寝て読んで貰って聞いたりするのにふさわしい話で、私は恐らくこれから先何ヵ月もこうやって本は読んで貰って、書く事は書いて貰ってやるしかないでしょう。今日は長ものがたりになりました。
八月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 藤島武二筆「屋島山上の展望朝霧」(一)[#「(一)」は縦中横]、梅原龍三郎筆「朝の仙酔島」(二)[#「(二)」は縦中横]の絵はがき)〕
(一)[#「(一)」は縦中横]十九日、今日は写真有難う御
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