つの大きい幸いでしょう。

 十月十三日 [自注3]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕


  祝い日

 愛するものの祝い日に
 妻たるわたしは
 何を贈ろう。

 思えば われらは無一物
 地道に渡世するおおかたの人同然に
 からくりもないすっからかん。
 健康も余り上々ではない。

 とは云うものの
 ここに不思議が幾つかある。
 朝夕の風は
 相当軒端に強く吹いて
 折々|根太《ねだ》をも軋ますばかりだが
 つつましい屋のむねには
 いつからか常磐木《ときわぎ》色の小旗が一つ立っていて
 荒っぽく揉まれながらも
 何やら嬉々と
 季節の太陽に
 へんぽんたるは何故だろう。

 夜が来て
 今は半ば目の見えない妻である私が
 少し疲れを覚え
 部屋の片隅の堅木《かたぎ》の卓の上に
 灯をともす。
 焔は暖く 橙色。
 憩っていると手の中に
 やがて夜毎に新しく
 一茎の薔薇がほころび初《そ》め
 濃き紅《くれない》に ふくいくたるは何故だろう。

 短く長いこの年月に
 私たちの見てきたことはどっさりある。
 歳月の歯車から
 ほき出される あれや
 これや を。

 何と度々
 愛の誓いが反古になるのを
 目撃したろう。
 その醇朴さが
 却って ばつの悪いほど
 辱しめられるのをも眺めて来た。

 けれども
 幼い子供たちが その遊戯の天国で
 ぞっとするほど面白く
 泣き出したいほど うれしいのは
 何の魔力のゆえからか。

 秘密は唯一つ
 それは 幼な児の正直さ。
 遊戯の約束は決して破らない
 それの たまもの。

 単純きわまったこのことに
 妻なるわたしは
 幸福の天啓をよみとる。

 そうだ わたくしも
 約束はやぶるまい 決して。
 互を大切に いとしい者と思いあう
 この おのずからなる約束を。

 今宵も ひとり私は灯のそばに坐り
 ひとしお輝く光の輪につつまれる。
 やがて薔薇も匂いそめ
 単純な希いが
 たかまり
 凝って
 光とともに燃ゆるとき
 愛するひとよ
 御身の命も亦溢れ
 われら鍾愛の花の上へ
 燦然とふり注ごう。

  真白き紙の上に

 真白き紙を くり展《の》べて
 黒い字を書く めずらしさ。


 墨の香は秋の陽にしみ
 一字一字は 活溌な蜻蛉。


 古き東洋の文字たちは
 次から次へと
 ふき込まれ
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