トにひきまわされつつ、しかも今日の私たちから見れば、ダットさんが示しているような時代のすき間に落ちこんだ典型であるというところです。
 あの宿題を勢こんで片づけたことから段々仕事にはまりこんだ気になれて来てよかったと思います。ブランデスを見たらブランデスなんかはバイロンを自然主義作家の中に入れているのね。しかし、『発達史』の著者が見ているようにロマンティシズムの一つのタイプだというのが妥当でしょう。ハイネが三つの時代的要因の間に動揺したいいきさつもよくわかって面白うございます。バルザックからゾラへのうつりゆきも面白いし、フランスの十八世紀後半から十九世紀の世相というものは実に大したものだったのですね。ディケンズの背景をなすイギリスの様子もよくわかります。そして改めて感服し、おどろき、深い感想をもったことは、日本の文学が十一世紀頃大した進歩をしているけれども、十六世紀以後、ルネサンス後の世界が大膨張をとげて近代文学を生んでゆく時になると、もう関ヶ原の戦いでやがて十七世紀は鎖国令を出している点です。文芸復興の初頭十五世紀、日本には足利義満がいて、能楽が発展していて、平家物語の出来た十三世紀にダンテは「コメディア」をかいているというようなこと。徳川三百年というけれど、もっとさかのぼりますね。沁々そう思いました。十二世紀に入って、比叡山の山僧があばれはじめたとき、それは何かであったと思われます。哲学年表とてらし合わせて見て暫く沈吟したというような塩梅です。
 今日世界の文学史をよむことはためになります。大きい無言の訓戒にみちてもいます、作家の消長は歴史の頁の上には、その人が強弁しがたき現実の跡を示してむき出されているのですもの。この勉強は、ですからどうも一つの本にふくまれる必要以上のみのりとなりそうです。ハイネを好きになれない理由が自分に納得されたりもして。
 今度は無理ですが、いつか又プランを立ててせめて日本に訳されている十八世紀ごろの古典ディドロなんか、我慢してよんで見て置こうと思います。モリエールなんかもっともっと知られるべきです。ヴォルテールなんかがアカデミックな人たちの間に訳されているのに。芝居の方のひとで、そういう勉強や整理をやる人が一人ぐらいあってもいいのでしょうのにね。ナポレオンが自分の舞台装置として古典(ローマ)を飾ってアンピールという様式を服飾(女の)や家具にこしらえたのなんかその筋道が分ってやはり面白いわ。父の仕事の関係から、子供のときから、ゴシックだのルネサンスだのバロックだのアンピールだのときいていて、そのぼんやりした概念はもっていて、今は一層の面白さ。今父がいたらきっと面白いでしょうね。私は、おとうさまおとうさま一寸おききなさい。こういうのよと喋ったでしょうから。父の時代の芸術史は外側から様式だけ扱ったのですものね。たとえばバロックという、あの人間が背中をまげて大きい柱の支柱飾りとされている様式なんかだって、ルイ時代の宮殿生活そのものがローマ帝国をあこがれて、神話のアトラスを柱飾りにしたのでしょうか。だってあれは柱を負っている人間の姿で出ているわ。子供らしく面白がっているようで、すこしきまりわるいようですが、御免下さい、余り面白がらないことがどっさりだから、まあこの位は健康上お互様にわるくもないでしょう。
 ああそれからきょうは、一昨年みんなが私たちにくれたカーペットを出しました。こっちならゆったりとひろげて日光に直射もされない場所がありますから。ずっとしまって大事にしてあったから全く色もあざやかよ。それを敷きましょう、ね、そして、あしたは、新しい生活の条件にふさわしく一ついいことをするのよ。太郎に生れて初めて顕微鏡というものを見せてやります。太郎の生涯に一つの新しい世界をひらいてやるのよ。いい思いつきでしょう? 午後二三時間さいて。うれしい思いつきだと賛成して下さるでしょうと思います。大人がきまった顔で集って、何かたべてみたって初りませんから。これは今年らしい、そして今年の十七日には最上の行事でしょう。
 中公の本やっと目鼻つきます。
 あなたのトラ退治も漸々で安心いたしました。よくは分らないけれども、いくらか白眼がさっぱりして来たように見えます。この間うち本当にうるさそうな眼つきしていらしたから。
 すこし足なんかつめたくなりはじめましたけれども心持よい時候になりました。あの菊はいかが? この次の夏にはいい匂の百合の花をおめにかけたいと思います。今年はありませんでしたから。もう程なく例によって赤っぽいしまのどてら(薄い方)お送りいたします。小包にするとき暖く日にほして(今は縫い最中)ポンポンポンと背中のところたたいて、よく衿のところを合わせて、そして送ってあげるのよ。
 あしたはお天気がいいといいと思います。では火曜に。

 十月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月十八日  第四十五信
 きょうは雨がわり合いい心持の日です。
 いかが? そちらのきのうはいかがな一日でしたろう。私はね、早くおきて、午前中ずっとよみかけのものを読んでノートとって勉強して、午後から太郎をつれて目白へ出かけました。
 太郎は学校が近くて、通うのに電車にのらず行っているものだから、混んだ電車なんか迚も不馴れで一生懸命でキョロキョロつかまえた手を決してはなさないの。
 目白へ行って、顕微鏡で人間の血液、兎の血液、蛙、やもりの血を見たり、自分の爪の間にたまった黒いものの中にどんなこわい妙な形のものがあるかを見たり、髪の毛は松の樹の如し、という見聞をしたりして、お菓子を三つもたべて五時ごろ出かけて、目白の通りのビリヤードのすぐよこの鳥常という昔から出入りの店へよって、御馳走のための買物をして六時一寸すぎかえりました。
 二階へあがったらね、となりの皆で食事する方に奇麗な菊がどっさり鉢にさして飾ってあります。火をおこしおなべかけて呼んだら、国男さんと太郎が横一列にあらわれて、どう? ちゃんと並んで坐って合唱なの。「おめでとうございます」凄いでしょう? 見ると、二人は胸に赤っぽい菊の花を飾っているのよ。ほかにおしゃれのしようがないからですって。
 やがて、真赤なズボンをはいた泰子がああちゃんにだっこされながらケトケト笑って(これは偶然です、残念ながら。やす子にはおめでたいのが分らなくてね)あらわれて、そのああちゃんは青いような縞のきれいな外出着で、やっぱり髪に花つけているのよ。寿江子のものぐさが夕飯に着物着かえて現れたという、全く驚天動地の盛会でした。
 こんな盛況があろうとお思いになって? 一人一人敷居のところで今晩は、ととても気どった声を出して入って来るのよ。見せてあげたい姿でした。御覧になったら、あなたはきっと、むせておしまいになったでしょう。余り素晴らしいから。
 ゆっくり御飯すまして、国男さんが、かけ時計の高さを直してくれて、それから一寸三人で(咲と)一仕事やって熟睡いたしました。
 きょう、太郎をつれて国と三人で国府津へゆこうということになって、国は植木屋の用事、私はすこし片づけもの(この間から私たちの話に出ていた)をして来ようと思ってあらまし仕度したら、この天気でおながれよ。
 十五日のお手紙は、きのうかえって来たらテーブルの真中に出て居りました。どうもありがとう。きのうついたというのはうれしゅうございます。
 追い出された目録たちのこと。たしかにいくらかヒステリーだったのね。それもそうだし、むき出しに云ってしまえば、私がまだ本当の勉強のやりかたを十分わかっていなくて、間に合わせの方法でやりつけて来ているということを認めなければならないのでしょうと思います。私の勉強法なんて全く、自家製のお粗末なのですものね。誰からも教えられず、極めて遅々たる自分の自然な成長の歩調で、やっと本を使うことの一つ二つを知った程度ですもの。しかも、もしあの婦人作家の研究でもしなかったら、私はいつも自然発生の感想をかくことしか学ばなかったかもしれません。
 目録類を粗末にしたことについては、強弁の余地なく、「それも亦妙なる」自己弁護もする気がありません。僕のコレクションと云われると、駭然として悄気《しょげ》ます。御免なさいね。出来るだけ何とかして恢復を計りましょう。全然不可能でもないでしょうから。
 けれども実際本の保管には弱ることね。永年に亙って本をとっておくということは(雑誌の場合)大したことだし、さりとて文芸評論だけ切りぬいたってやはり、その号の全体の表情との関係がいるのでしょうし。何とか考えなくてはいけないわね。
 段々真面目に仕事を組織してゆくようになるにつれて、集積として、素材として、本は益※[#二の字点、1−2−22]好きという身勝手なものから大事というものになってゆくのでしょう。私は中ぶらりんのところね、だからヒステリーの作用を蒙りもいたします。
 朝日年鑑、この間も見てどうも変なのよ。あなたの示して下さっている鉱山のは、次のように書いてあります。 単位千人
[#ここから18字下げ]
五三三・九
[#ここで字下げ終わり]
 つまり五十三万三千九百でしょう。これだけでも私は間違えていたことが分りますが、どうしたわけかといろいろ使った統計しらべて見たら労働年鑑を百単位によんだのでした。人単位を。だからケタちがいを生じたわけです。二七、〇〇〇三と(十一年)あるのにね。十四年の働く女性の総数が二、五五八・四です。閉口ね。この次の時(増刷すれば)直しましょう、忘れずに。どうもありがとう。くりかえし云っていただいてすみませんでした。
 文学史に関する本で焼きたくないものはかなりありますね。明治文学に関する古い出版のものにしろ一旦やけたら、やはりなかなか再び手に入らないでしょう。個人の書物がこんなに露出されていると、本当にせめて上野の図書館ぐらい安心であってほしいと思いますね。もしあすこが本当に安全であればまとめて寄附して、いつでもつかえるようにして貰ったっていいのにね。あすこが又どうでしょう、上野駅に近いのですもの。
 多賀ちゃんへは手紙こちらから出します。今日つづけてかいてしまいましょう、何かにとりかかるとつい手紙を不精してしまって。きょうから『新世界文学史』にかかります。そして、これが終ったらカル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ートンを見て日本文学の作品を直接よんで、いろいろ段々と面白い計画をお話しいたしましょうね。例えば、この頃英雄ごのみがあって、ナポレオン伝やニーチェ伝がよまれるのよ。英雄とは何でしょう、ニーチェとはどういうものの考えをした人でしょう、私はそういうことも分るようにしたいと思います。同時に平凡ということの真の意味も。そういうトピックについてスタンダールの作品、ニーチェの「ツアラトゥストラ」やショウの「人と超人」や二葉亭四迷の「平凡」、花袋の「田舎教師」が出て来るだろうと思います。平凡の実質は高まるということについて、ね。
 読まれるものの意味と、そういうもののよまれる心理をはっきり描き出すことで、私たちは自分の生きている生きかたを知ることが出来るでしょうから。
 親と子とか、友情とか、そういう風に扱って行きたいのよ。性の課題ではトルストイが親方として登場するでしょう、「クロイツェル・ソナータ」。性の扱いかたの偏向、フロイドの或種の亜流や何か、をも見ながら。だからなかなかなのよ。腕を高くまくって肱まで粉につけて、深くよくこねなくてはね。しかし、もしうまくこねて焼ければ、これはそう不味《まず》くはない風味の食物になり得るでしょう。モラルの形でなく、人間の真実としてまともなものを示したいと思います、モラルや風格ならほかのひとがやりますから。恋愛のことについて書くとき私は恋愛小説の存在の意義をも明らかにしたいと思います。所謂真面目な恋愛小説というのはどういう要素に立って云われるべきかということを。「ウェルテル」にしろ真面目だったでしょう、あの時代としては。しかし今日の意味には、通用し
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