安寧、マアかつえない日々をよしとする気分におかれているようになるということは、政治の貧困の半面の時代的な心理ですね。大きい言葉が空中にとび散っているけれど、何となし人々の目は小さく身のまわりに配られています、様々な意味で。
この正月はそういう気持が一般に著しくて妙な空虚でした。一応おめでたいみたいなのよどこもかしこも。だがお正月と共に万事お休みの感で、次に何が出て来るのか何だかこわいみたいなそんな変な新年の雰囲気でした。
『現代』で売切れのトップを御発見になったということ、あなたに珍しかったばかりか私にも大変珍しいことです。「現代の心をこめて」は、つけないでよかったのよ。羽仁五郎の「ミケルアンジェロ」のどこかにある言葉にごく似ているのがわかったから。現代の心のかぎりをこめて、というのですが、ミケルの方のは。三つの単語を並べた題というのはどうでしょう、ポツンとしていて、そして二昔前に割合はやった題のつけかたで与謝野晶子からいてうに「雲・草・人」というのなどあり。全く実質はちがうけれど。竹村のをまとめたらほんとに目次かきましょうね。でもまだ枚数不足と思うのですけれど。それに私とすると、評論集ばっかりつづくのはいくらか不本意なのよ。せめて『第四日曜』でも出てからね。その時分になれば枚数も揃うでしょうし。
佐藤さんのおばあさんが、あなたのやさしい心と大変よろこんで居りますって。いつもお手紙下さるときにはよろしくとかいてあるから、と。若い夫妻は折々御飯を一緒にたべるのに、おばあさんはなかなかお招きしないから五日にはおばあさんと夫妻と赤坊とを夕飯によび、柔かいお魚の鍋をして皆で団欒《だんらん》いたしました。そのとき偶然戸台さんが来合わせて、一緒にたべました。ひどい風邪をやって、大分参ったらしい様子でした。北海道のおっかさん、二月が近づくと東京が恋しくなって来る心、ねえ。そして、弟息子のボロ洗濯を山ほどしてやって二階借りの暮しをして。余りこの正月は人が沢山で私は人当りして居りますから、暫く独りぐらししてその上ゆっくりよんであげるつもりです。
今年の第一信へ。そう? ユリも正月らしく見えました? 私の第一公式で出かけていたのよ、大おしゃれなのよ。
羽根つきは、昨夜も座敷の中でやりました。坐り羽根つきという新しい名をつけて。ややピンポンに似てしまいますが、それでも面白いわ。子供がいると。健造ぐらいの子供はナカナカ好敵手です。(この三月にもう六年ヨ、医者になる由です)
それでもお菓子がおありになったの凄いわねえ、こちらは餡の菓子は買えず、よ。ひとが持って来てくれた菓子の正月でした。
作家として、抒情詩は抒情詩としてのリアリティを目ざすところに逞しい面貌があるのだから、というところ、ここは全く真実であって何と面白いでしょう! そうよ。全くそうよ。「朝の風」は私にそのことを教えているのよ。それは創作においての方法にふれて、私にはこういうこととしても云われるのよ、――主観的に作者をつよくとらえている一定の気持の中に入ってしまっているために、それに甘えているために、つきはなして、リアリティをきずきあげる力を発揮し得ていない、と。いつかのお手紙に、抒情性が芸術の迫力を弱めるなら本来の主旨に反するとおっしゃって笑ったことがあったでしょう、それよ、ね。ここいらのところは、実に微妙で、作家は一生のうちに何度かそういうようなモメントを経験するのでしょうね。自分の境遇への感情なんて、何とはっきり作品へそのよさもわるさもあらわすでしょう、だから小説は大したものよ。どんないい筈の境遇でもそこで人はわるくもなるのです。そして、そのことを、いつも明確に知ってはいないことがある。だから今年は勉強したいというの、お分りでしょう? 去年は相当の量の仕事いたしましたから、いろいろ学ぶところも少くなかったというわけです。しかし、それとは別に又今年は勉強と思うわけは、ね、どの雑誌も頁数を切りちぢめ、たとえば、二十枚とつづけてたのむところが減ります。これ迄の(明日への精神)に集めてあるのは二十枚ぐらいのが多いのよ、ですから相当に腰が入りテーマも本気です。でも今年はそうでないと見とおして居ります。ですからすこし長い腰の入ったものはやはり自分の勉強のつもりでかいて、その上でなら又発表の場面も出来るということになるのでしょう。パンにつられた犬の小走りと書いていらっしゃること、ああいう小間切れ仕事だけになっては大変ですから。それも書く上で、ね。
お正月にかかなかったものというのは、『文芸』の評論で、この頃小説の明るさというものが求められている、それが教化的に求められていると同時に生活的にも求められていて、その明るさが他愛なさに通じたり好々爺的なものに通じたりしている、それでない小説の明るさ芸術の明るさとはどういうものか、ということを書くわけだったのですが、作品に即してかこうと思っていて間に合わなかったのよ。決してサボには非ず。来月かきましょう。小説の明るさ、明るい小説なんて言葉が文学の領域に入っていることさえ変なのだから、そこから先ず語り出さねばならないわけでしょう、だからつまりは今日の生活と文学の論となり、そこまで踏み込まなければつまらない。
『文芸』で評論を募集したらパスカルの何とかデカルトの何とかですって。選者に小林秀雄がいるというばかりでなく、そのことに若い世代の文学的資質の傾向、及び、トピックを見つける分野の狭くかぎられている客観的な事情等あらわれていて、私は大笑いしました、じゃパスカルだの何だのと、選者はおそらく先ずそんな本をよまなければならないのだろう、と。助ったわ、私が選者でなくて。
『現代』はそうして見ると、『現代文学論』の素材的でもあるわけですね。それは知らなかったわ。古いのでも送って頂いて見ましょう。作家がいつしか段々臆面のないものに化しますね、知慧というものは常に或る美しい含羞をもつものです。その新しさ、新しさをうけいれてゆく弾力、自分の未発展なものへの期待、その故に羞《はじ》らいをもっている。(おどろきの変った形として)そのような精神の浄《きよ》らかな命は、いつの間にやら失われて、通俗作家以下のものになっているのね。今は云わば愧《はずか》しいなんていうのは自分の心があからむだけのことみたいなところがあるから、ひどいことになってゆくのでしょう。自分に向ってしらばっくれてしまえば、万事OKであるわけです。
お年玉のこと、呉々もありがとう、たのしみにしておいで。そういう響のなかに何とたのしさがこもっていることでしょう。たのしみにしておいで。たのしみにしているわ。
この頃私はいい絵が部屋に欲しくてたまりません。今あるのは、松山さんの近来の傑作と柳瀬さんのホラあの水屋のスケッチ。どうもこちらのボリュームをうけてくれるに足りず。写真でいいからいいのが欲しくてたまりません。そして、もしかしたら林町の古いビクターをかりて来るかもしれません。絵は欲しいことね、私は仕事の間にタバコすわず、お菓子つままず、余り方正でさりとてトランプのひとり並べはいやですし、やっぱり絵なんか見たいわ。丸善のけちな画集すこし買おうかしら、それもいいわ、ねえ、あなたのお年玉の一つとして。雪解けの音はすきです、荷風はうまくかいています、「雪解」という小説で。
一月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月十一日 第三信
今この二階へ斜かいに午後の陽が一杯さし込んでいて、家じゅう実にしずかでいい心持。
お恭は、一時二十分の準急で立つのですが、十二時に家を出てそれでもういくらかおそめです。この頃の汽車は、出発前十分に駅にゆくなどという昔のハイカラーなのりかたは夢で、上野なんか西郷の銅像のあたりまでとぐろをまきました、それは暮だけれど、今日はどうでしたろうか。小さいトランクにふろしき包み一つ。コート着て、赤い中歯の下駄はいて。顔を剃ってかえりました。
きのう迄寿江子がいて、二階狭いから私はベッド下へ布団しいて臥《ね》て、何だか落付かなかったので、昨夜はいい心持でいい心持で、久しぶりにベッドの中で休まりました。寿江子神経質ね、毛布なんかに虫よけが入れてある、その匂いでゼンソクおこすのよ、ですから戸棚にしまってある布団にはねかされないの。ひどいものでしょう。それにカゼ引いていたし優待してやったの。
見事なお年玉いただいたしこれで私のお正月になりました。
お年玉といえばね、きのう本当に珍しいボンボンをたべました。あんなボンボンこの頃どうしてあったのかしら。ボンボンであるからチョコレート製にはちがいないのだけれど、口がひとりでにそこへ誘いよせられるような工合で、口の中へやさしくうけとったら、かんでなんかしまえなくてね、ボンボンが溶けてゆくのかこっちがとけてゆくのか分らないような濃《こま》やかな味なの。素晴らしいでしょう? ボンボンとはよくつけた名と思います。お美味《いし》い、お美味いというそのままの名なのだもの。フランス人はしゃれて居りますね。キャンディなんて、それは歯でかむものの名です。かみそうな名じゃないの。ボンボン、響も丸やかで弾力があって、本当にボンボンの感覚です。
こんなボンボン好きみたいなことを書くと、あなたは心配なさるかしら、さてはユリは糖分過剰にならないかナと。大丈夫よ。このごろ、きのうのようなボンボンは決して決してざらにはないのです。
こうやって、お年玉のお礼だの美味なボンボン物語をしていたら、十一日づけのお手紙着。(十二日)
そして、何だか折角頂いたお年玉をみんなとりあげられそうで、びっくりいたしました。
二月号に書くもののばしたというのは一つだけなのよ。『文芸』で、「小説の明るさ」についてこの頃いろいろ云われている、その正しい概念について書いてくれということで、このことはこの頃考えている精神の明るさの問題と等しい根拠で語られなければならないから、大切なことと思い、ただ、展開してゆくのに具体的でなければならないから、骨子だけで語ることは出来ないから、いろんな作品――所謂《いわゆる》明るいという――宇野のもの、武者のもの、徳直のもの等――その作品の分析をして、語らねばならず、小説のこと考えていたら、こまこまそんなものよむのいやで六日に間に合わず、のばしたのよ。一月号のためのものは一つもあまさず書き終って居ります。長いものの手入れだって、二十日の自分の〆切りが二日のびたのだけれど二十二日には全部わたしているのだし、小説だって書いたし(『文芸』)その他こまこましたものだって書いたし。
あんなにいいお年玉頂き、それを忽ちとり上げられたりしては一大事だから、ユリこのところ必死の防衛よ。くりかえし申ますが、正月号のは、小さい女の子の雑誌から『婦人朝日』対談会出席まで一つも違約なくやって居ります。のばしたのは二月号のものの中でも『文芸』のそれ一つよ。あとは書いて居ります。そして、そういうことはお年玉をとりあげられたり、お嬢さん的云々というほどのことではないように思えるのよ。
度のすぎた労《いたわ》りや祝辞は云々は全く恐縮で、これから本当にお止め? しかし、もし相当ちゃんとしているのだとしたら、お止めの理由もないわけね。人間が成長してゆくためには、暖い光も時にはいるものよ。まして、その一本の草がどのようにのびようとしているかということについて、真実の同感や思いやりや期待をもっていてくれるものが、ほかに大していもしないという場合には、ね。そして、同じ源からの激励に対しては、全くそれを評価して、最大に活かそうと試みられているときには、ね。
食って、しゃべって、遊んで、のびが戻らず、間に合わないではというところよんで何だか笑えました。のびが戻らず――まるでそれではこの頃のゴムのようね。
いろいろぐるりの空気、文学上の空気が何しろこうですから、あなたが、小乗的愛を警戒なさるお気持は大変よくわかるわ。私がよく書くように、人間の生活の条件は実に微妙で、私
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