くないようです。百円で子供もちだとキューキューですものね。大学出で或年まではその位らしいわ。
 きょうは曇天ね(十三日)。あしたどんな天気かしら。咲枝の買って来てくれた羽織を着てゆきたいのに。ではね。

 十一月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月十五日  第五十一信。
 今夕方の五時でね、もう雨戸をしめ、机に向い、足はぽかぽかとしていい心持なのよ。元気のあるいい心持です。どうしてそうかしらとふっと考えたら、寿江子がカゼで、きのうもきょうもブカジャンがないのです。だからなのねえ。力のたまったいい心持です。こんなに気分ちがうかと思うと、何だかおかしい。勿論寿江子の風邪ひきは可哀そうですが。でも、ラジオと音楽とでうちは大抵の頭は散漫になってしまうわ。めいめいそれぞれの音係りは、それぞれの道からきているのですけれども。ラジオはラジオとしての波をだけ。音楽のひとは自分の専門――目下のところハーモニーの勉強などから。それらのどっちも、普通人の音の感覚できいているのは私や太郎やああちゃんよ。あわれ、あわれ。
 この頃時々、目白での或ときの心持、感情を思いおこします。その感情に淋しいという名はつけなかったけれども、今になってあの時折の気持思いかえせば、それは今何となしうるおされている部分が、あのときは乾上っていたことを感じます。何かの折それを自覚していたのね。手つだいのひと、さもなければ、どんな親しくたってお客様であるにちがいないひと。そういういきさつだけで日々が運転してゆく生活。隅から隅まで自分で動かさなければ動かない生活というものの目に見えないうちに肩を張らし肩をこらしている生活というものは大したものであるとつくづく思います。
 どんなことにもわるい面だけはないものね。今の私は、一方で大旱魃でありながら、思ったよりずっとずっと他の面では潤沢となっているのですもの。そして、この面のうるおされることは、私の神経の衛生上必要な時になっていたとわかって、天の配剤妙なるかな、と思っている次第です。ほんとうによかったことね。そういう衛生学は、極めて微妙で、夜中どんなに犬がほえようと平気という、そんな些細なところからさえかかわって来ているのですもの。どうやらわたしも女丈夫にならないですんで、うれしいわね。御同感でしょう? 私は迚もそういうたちではないようです。
 私たちのこんな時期が、計らぬ面でそんな発見を伴って営まれるということは、大なる仕合わせと云ってよいでしょうと思います。そして、一層、一生懸命になるべきところに力を注ぎ、ゆたかに成長することができたらば、ね。私たちの日常のなかに子供たちの声だの、その成長だの、おかみさんのあれこれパタパタだの、そんないろんな響が入っているのはいいわね。「朝の風」はこわい小説よ。忘られないところがあります。ああいう風な感情の集注はこわいと自分であのとき痛感して、「その年」ではああいう風に、ひとの生活へ外の世界へと目をむけたわけでした。この何年間かの生活で、私たちの生活の感情の絃の一本は、あの作品でその最頂点を顫わしているのよ、悪条件的に。あの作品について云って下すったいろいろの点はその理論的把握でした。
 生活の展開というものは何とおどろくべきでしょう。生活全体で展開してゆくのですものね。決して生活のどの一筋だけをとりあげてどうと云ってかわってゆかないものであるから油断がならないわけです。
 今度の文芸同人雑誌の統制で八種だけがのこりました。八十何種かのうち。日本全国では二百何種とかという話ですが、八十何種は東京だけでしょう。文学を勉強してゆく人たちの道というものは近代日本文学史で初めての転換をするわけです。どういう風になるでしょうね。これまでだって、勤めていて、そして傍ら小説をかいていた人がどっさりありました。三十歳前後のひとは殆どみなそうでしたろう。五円十円と出しあって同人雑誌をつくっていたのね。文芸の同人雑誌が、本当に新鮮な文学の土壤ではなくて、文壇の苗畑めいたものであったことは一部の実際ですし、その同人たちが云わば惰力的にくっついていて、そこで枯渇したのも実際です。けれども、そういうところに集っていた表現の欲望は、どこにこれからあらわれるでしょうか。これから文学をやりたい人は、習作時代をどう経てゆくことになるでしょうか。非常に注目されます。
 一ついいことは、実生活と文学とは別なもの式に考えられていたこれまでの伝習が急速に崩れ変ってゆくことでしょう。が、さて、その崩れたあとからどう何が萌え出すでしょうか。私は、そういう端初的な表現の欲望は、文化面へ広汎に散って、あらゆる部面からのルポルタージュとして再生して来るのではないかと思って、興味深甚です。そういう形で旧来の文学は生活の中
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