かかかれていません。このゴーギャンにゴッホがひきつけられ、しかもそれは不安な魅力で、ゴッホが自画像の耳が変だとゴーギャンに云われて、てんかんの発作をおこして自分の耳をきりおとしてしまったことなど、そういう人間の火花は面白いけれど、書かれては居りません。モームの小説では。でもゴーギャンの絵のあの黄色と紫と赤のあの息苦しいような美はよくとらえて、タヒチの美として、ゴーギャンの感覚としてかいて居ります。
ヘミングウェイをよんで思うのよ。イワノフの「スクタレフスキー教授」が何故にこの作家のような、くっきりとした線の太さ明瞭さで書かれなかったかと。それから「黄金の犢」も。それについては、又ね。余り長くなりますから。
九月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十七日 第三十九信
もうきょうはこんな日。びっくりしてしまいます。何という恐るべき引越しでしたろう。今夜は、やっとやっと、もうこれで動かないところ迄こぎつけて、風邪ひきで休んでいた国男さんに机の上のスタンドがつくようにして貰って、吻っとしたところです。
今夜は障子が骨だけなの。明日張れます。そしておしまい。それで当分は、もう知らない、というわけよ。二階を片づける、片づけたものをもってゆく場所がない。そのために土蔵の中を片づけなければならない。そういうおそろしい因果関係で、つまるところ私は二階から土蔵の中までの掃除をしなければならなかったのですもの。こんな引越しなんて天下無類です。そしてすっかり片づけの要領を覚えてしまったようです。ああ、ほんとうにひどかった。こういう折でもないと、家じゅうの邪魔ものをみんな二階へぶちあげるきりで更に何年間かを経たでしょう。この部屋も全く別のところのようです。よかったわ。お化けじみたところは消散してしまいましたから。
さて、九月二日、目白の方へ下すったお手紙。この前の手紙にこの手紙へのこと素通りしてしまっていたって? 二日のお手紙はそういう可能を自分の条件の裡に発見し具体化してゆく心持に直接ふれて来ていたのに。あとで手紙書いたときは、何しろ手拭で頭しばって働いている間みたいで、きっとおとしてしまったのでしょう。
随分あっちこっちから考えた上のことですから、本当にこの最少限の最大限というような生活の奇妙な条件を充実して暮したいと思います。万事私の勉学次第ですものね。それだけがやがて、今日の生活を価値づけるのですものね。そこをはっきりつかまえて、一心不乱であればよいのだと思うの。ひとが、こう生活すべきだとつけまわして、自分の生活を空虚にしてはいられませんから。謙遜に、たしかに自分の道を怠らずゆくことというのは、自身の充実への戒心のわけです。それにね、あのダムを必要によってこわしてしまったというニュース[自注7]も、もし事実なら、やはり、いかに生活はあるべきかという意味ふかい教訓だと感じました。みんなはどんなにあれをつくることを愛したでしょう、どんなに模型をクラブにおき、それについて詩をつくり、小説をかいたでしょう。建設の一つの塔のように響いていたものを、出来上ってやっとまだ三四年の今、それが必要なら自分たちでこわすということには再び又それをこしらえるというつよい確信がこもっていて、こわすことに却って勇気がこもっています。生活の勇気とはそういうものなのね。そうだとしたら、自分がもちつづけた生活の形を変えるということを決心しにくいというのは、何と滑稽な意気地のないことでしょう。様々の変化に耐えないというわけなのだろうか? そう自分に向ってきいて見ると、私の中には、そんなに自在さの失われている筈はないというものがあって、それで、私は明るくされるのよ。
隆治さんのことは、私は次のような点から感服するのよ。酒をのむのまぬ、煙草を吸う吸わぬ、そのこと自体は吸ったからわるいという考えかたでは余りかたくるしいけれど、そういうものなしに様々の艱難を凌ぎとおしてきたという、そういう素面《しらふ》でいる人間の勇気というものを私は感服するの。達ちゃんの話では、迚ももてん、というのですから。そしてまわりは皆やる。自分がやらない。いつも正気でいる。そして酒の勢をかりてやることを見て来ているし、やらせられて来ている。そこに何か痛切なものがあります。私はそこを思うのよ。隆ちゃんがその正気の心で経験して来たことを思うのです。例えばヘミングウェイは大変男らしい作家です、爽快な男です。私は随分気に入ったところがあるのだけれど、この人の小説には、酒とたべものが何と出て来るでしょう、官能の性質が推察されるようです。どうなってゆくだろう、この先、という心持の中にはこの作家のそういう面もやはり一つの条件となっているようなもので、隆ちゃんのしらふについて深く考える
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