れなければならないわけですから。それには、たとえば文章のテムポというようなもの、テムポが平均人の頭脳的情緒的リズムに合うように存在するということ、そんなことも又決して無視出来ず面白いと思います。説得する力というものは文章の中にあって、単に筋の明かさ、否定しがたさばかりではないのね。「杉子」その他では、この面で関心が払われているのですが、どういう結果でしょうか。小説でもわかるように云う、云いあらわすということで、或場合、決して作者の自然発生な表現のままでは不十分ですね。低くなるということとは別なわからせてゆく力、いろいろな要素からそれは出来て居ります。特にその作家が、常識の波調のままの情緒でものを云っていない場合、ね。
この間、私が余りいそがしくて詩集くりひろげるどころでないかい、と笑っていらしたわね。或意味では反対ね。一日に仕事終ったときなんか、詩集をくりひろげその頁の間に顔を埋めたい気持でした。あなたはこの頃どの詩を御愛誦でしょう。私はよく「季節の思い出」「アンコール」「よろこばしき病のように」などをくりかえし読みます。「季節の思い出」の中の「口紅水仙」覚えていらっしゃるでしょう? 口紅水仙の花弁のなかにはもう一つまるく敏感な紅のふちどりの花びらが抱かれていて、春の初め、漸々水仙が開きはじめの頃、待ちどおしいやさしい指にふれられて、新鮮なその感触に花びらは戦慄しながら次第次第に咲きほころび、匂いたかくなってゆく描写。それから「よろこばしき」の中の空気の中に鳴るような一節、「ああこれは何かの病気だろうか」といういのち溢るる詠歎。この「よろこばしき」の格調は一度よむと、もう耳につき魂について決して忘れられない美しさね。どうしてあんなに美しいのでしょう。ほんとにどうしてその美しさはいつもまざまざと描き出されて、うすれるどころか印象の中で一きわ光彩陸離となってゆくのでしょう。そこが芸術である所以でしょうか。「泉」の描きかたにしろ。ねえ。それから「木魂《こだま》」という、あの可愛らしくて真実みちたソネット。森の中で――忘れておしまいになったんでしょう?――一人の少年が爽やかな早春、一匹の栗鼠《りす》を見つけ、おやと眼をみはります。その栗鼠は不思議と、余り遠くへ行かずやっぱり眼をパチクリさせて少年を見ています。ふっと少年はその栗鼠をつかまえようとします、栗鼠は逃げます、でもふりかえりふりかえり逃げて到頭、それは少年の二つの手につかまります。何と可笑しい栗鼠でしょう、その手の中から逃げようとしないのよ。少年は笑って、いいかい、もう決して離さないよと心持よさそうに叫びます、するともう決してはなさない、とどこからかもう一つの声が答えるの。どこからかしら、少年は栗鼠がいうのかしらと思うの、もう一度ためしに、いいかい、もうはなさないよ、そういうと、どこかで又もうはなさない、というの。それは木魂でした。少年はリスにつかまったのでしょうか、それともリスが少年につかまったのでしょうか、森の木魂は何と答えるでしょう。そういう物語。「季節の思い出」は風景がゆたかで全く飽きません。「仮睡」というの、これもあなたはあやしいわね、そっくり覚えていらっしゃるかどうか、夏の部よ。牧童が泉のほとりへ来かかります、せせらぎながら溢れこぼれる泉にひきつけられて、喉のかわいている牧童はそのゆるやかな丘の斜面に体を伏せ、芳しい草をかぎながら、口をつけて泉をのみます、甘美な泉に満足した牧童は丘のなだらかな線に体をまかせたままいつの間にか眠ってしまいます。いつしか日が沈み、白い月が夕暮の中にさしのぼり、しかし、丘も泉も牧童も夏の生命の横溢の中で一つの影にとけ合って、やはりまだ眠っている。この叙景は非常に典雅で而も健やかで、音楽的です。やさしいメロディーの旋律が插画のように入っていたでしょう? 私のところにこの集があるのにそちらに別なのが在るの、ほんとにおしいことね。あなたは風邪でいくらか御退屈でしょう? ですから、詩の一篇一篇を、そこにひろげてお目にかけたいと思います。では明後日。面白いわ、大きい字は遠いよう、小さい字は近いよう、ね。
三月四日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(速達 封書)〕
大変おそくなりました。例の謄写代の内わけ。
逸見上申書 四通 三・一八
同 上申 二通 二七・二八
宮本公判期日変更願其他 二通 一一・九九
木俣鈴子 上申書 二通
一四・八五
公・調 四通
袴田上申書 二通 三二・一六
計 八九・四六
右のうち、木俣上申書二通の中一通。公調四通中二通、計三通分をこちらで支払い。(7.50)
これでわか
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