供がいると。健造ぐらいの子供はナカナカ好敵手です。(この三月にもう六年ヨ、医者になる由です)
それでもお菓子がおありになったの凄いわねえ、こちらは餡の菓子は買えず、よ。ひとが持って来てくれた菓子の正月でした。
作家として、抒情詩は抒情詩としてのリアリティを目ざすところに逞しい面貌があるのだから、というところ、ここは全く真実であって何と面白いでしょう! そうよ。全くそうよ。「朝の風」は私にそのことを教えているのよ。それは創作においての方法にふれて、私にはこういうこととしても云われるのよ、――主観的に作者をつよくとらえている一定の気持の中に入ってしまっているために、それに甘えているために、つきはなして、リアリティをきずきあげる力を発揮し得ていない、と。いつかのお手紙に、抒情性が芸術の迫力を弱めるなら本来の主旨に反するとおっしゃって笑ったことがあったでしょう、それよ、ね。ここいらのところは、実に微妙で、作家は一生のうちに何度かそういうようなモメントを経験するのでしょうね。自分の境遇への感情なんて、何とはっきり作品へそのよさもわるさもあらわすでしょう、だから小説は大したものよ。どんないい筈の境遇でもそこで人はわるくもなるのです。そして、そのことを、いつも明確に知ってはいないことがある。だから今年は勉強したいというの、お分りでしょう? 去年は相当の量の仕事いたしましたから、いろいろ学ぶところも少くなかったというわけです。しかし、それとは別に又今年は勉強と思うわけは、ね、どの雑誌も頁数を切りちぢめ、たとえば、二十枚とつづけてたのむところが減ります。これ迄の(明日への精神)に集めてあるのは二十枚ぐらいのが多いのよ、ですから相当に腰が入りテーマも本気です。でも今年はそうでないと見とおして居ります。ですからすこし長い腰の入ったものはやはり自分の勉強のつもりでかいて、その上でなら又発表の場面も出来るということになるのでしょう。パンにつられた犬の小走りと書いていらっしゃること、ああいう小間切れ仕事だけになっては大変ですから。それも書く上で、ね。
お正月にかかなかったものというのは、『文芸』の評論で、この頃小説の明るさというものが求められている、それが教化的に求められていると同時に生活的にも求められていて、その明るさが他愛なさに通じたり好々爺的なものに通じたりしている、それでない小説
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