、大酒毎晩で、病室のとなりが食事部屋で、そこでのんで唄って踊るのですって。そして細君はそれをつらく思って、「この間も私に出てゆけっていうわけなのかしら」と私に相談しました。或は「別の家をもつようにすすめろというわけなのかしら」と。だから私はこう云ったの、「とにかくさわぐにしろ、家でさわぐというのは、やっぱり家に対して、妻に対して自分の義務を感じているとも云えるので、今時の男が本当に何かやりたいと思って、一々女房の許可を得てやるなんて甘っちょろいものではないのだから、こっちからそんなことにさばける必要はない。したいことはしているのだから。只もう三年もの病人で、それは気もむしゃむしゃするのだろうからよく劬《いたわ》って、互につらいところをしのいでゆくしかないでしょう」と申しました。この夫婦は不幸な夫婦なの。しかし、はっきりわかれず一緒にいる以上相せめぐのが習慣で暮すのは、やはりひどいことですものね。でもこのひとの話からも私は本当に結婚生活における女というものを考えます。私たちの友人たちの間でも、GさんにしろHあたりへつとめ口をさがして行ってしまったのは、やはり妻になった人が永い病気になったためです。一緒に暮せない。経済上の負担はある。いろいろ苦しいのでしょう、そして行ってしまう。良ちゃんだってやはりそのことがあります。稲ちゃんとよく話すのですが、女のひとはそういうことからも病気が不幸の意味を深めて来るのね。女ばかりと云えず男もいろいろあるでしょう。女からそうされる場合。でもやっぱり一般からは女の場合が率が多いのね。
柳瀬さんのあのエハガキの水屋ね、あれが届いて、今右手の鴨居の上にかけて居ります。今頃の北京郊外ね、緑の色がいかにも新鮮で、画面は梢の緑、土の柔かい茶、家の灰色というさっぱりした配色です。ねだんはまだ不明。この頃いい絵が見たくて。すこし暇になったら上野の博物館へでも久しぶりで行って見ようと思います。この部屋の額と云えば、机に向って正面の左手の三尺の壁のところに原稿紙にかかれた字がかかっているの、知っていらっしゃいますか? あのスケッチにも入っている筈です。リアリズムの創作方法について書かれたもののうちの一枚です。6という番号が余白にうたれていて。この部屋へ入るひとは友達ではごく近い四五人きりです。ダイジダイジなわけよ。
着物のこと、気候の不定なとき私も気が揉めます。この間うちは、ああ、あついと云った次の日、どうしたんだろうきょうの寒さ、そう云って羽織を着るようでしたものね。でももうこの調子でしょう。
本についての家憲はお笑いになったでしょう。何となし書いていらっしゃるときの表情が浮びます。更始一新的行事、というのは全くそのとおりでしたし、そのことで遺憾は更々なしよ。ただ、この頃は古本が実にないし、それでマアあんなことも云って見るというようなものです。私の批評をかくということは、これはどういうのかしら。今の条件から自然になったのですね、あなたがおかきになれば私は安心して書かずにいますから。それだけは確だから。作家の感想ではあるけれど、と評論的骨格の不備について十分認めつつ一言を吐いたりする必要は客観的にもおこらなくなりますから。仕事の範囲のひろまりや成長というもののモメントは大した複雑なものですね。あのとき予定に入れてなかったというのは、何か全般のありようから極めて自然ですもの。ここにあなたが半ば私を励ますように云っていて下さるように、私だけのことではないと思います。それはそうだわ、ねえ。
疲れ、すこしお直りになって結構。やはり初めの間は随分御注意がいります。本当に体の調子に従っておやり下さい。そのことでは私は心から安心して居ります。正に御放念です、それは私の一つの大きい仕合わせですね、よくそう思います。
仕事のこと。きょうはすこしドンタクの日です。二三日息ぬきをして、又はじまり。三十日の日が所得税申告の〆切りで、去年からの収入を思い出してかきこんで、フーフー云いました。去年の五月頃から私の収入はあるようになって来たのですから、金額にすればまことにすこしです。『文芸』のなんか金にしたら何とひどいでしょう、文芸雑誌は相変らずよ、『新潮』なんか下げましたって、却って。いつぞや島田へ送ったりしたものの三倍から四倍以下ね。それから経費をさし引くのですが、私は多賀ちゃんと笑いました。こんな収入でそれこそハンド・トゥ・マウスで、すべて経費だわ、生きて、考えて、書いてゆくためのすべて経費だわ。これは一目瞭然ですが、税務署はこの真理が通用しません。それだけの金を得るための何かが別にあるように思うのですから、私は本代よ、たった三百円の本[#「本」に傍点]で、仕事が出来るでしょうか、笑止千万ですが、マアそんなものです。そこから基礎控除を五百円とりのぞくのです、私のような自由職業は乙種事業というの。それでもまだ納税最低の五百円よりはすこし多いから、いくらか払うわけです。作家なんて全く何万という収入があればそれは経費をわけられますが、さもなくては経費なんて実にこまるわけですね。だからY・Nはいつか税務署とケンカしたのです、あの小説をかくにはわざわざ南洋迄行ったのですからって。
こんどからは稿料をかきつけておきましょう、そう思うけれど、まるで蠅の子のような小さいものを一々かきとめるついそれより先に消滅するのですもの。電光石火とはよくぞ云いける、だわ。栄さんのところ、稲子さんのところ、二人分で率が高まるわけです、あの人たちは庶民金庫からかりて、よそのお倉にいたものを全部とりもどしました。そして毎月十五円ぐらいずつ金庫にかえします。
この頃はそういう工合の暮しね、どこでも。この間うちはキャベジが一ヶ一円いくらかで、半分かっていました。半分四十何銭というキャベジには恐縮いたしました。ふだんに着るような銘仙が一反十五円ぐらいであったものが二十五円―三十円です。絹糸はボー落したが織物はそのね[#「ね」に傍点]です。デパートへゆくと、もと四五十円の反物があったその並《なみ》に百円のもの、それ以上のものザラです。そして、本年は、これまでになかった新考案の織物が続出いたしました由。そんなキモノきて、六割南京米の入った御飯たべて、そんなびっこの生活に女は平気で、せめてキモノだけと思っているとしたら、度しがたい次第です。いろんな形式で、こんな空気は健全にされるものではありません。カフェーは夜十一時迄ですから、昼遊びの店へと変形しつつある由。同じ遊ぶにしても昼のそういう気分が生活にどれだけ深刻に作用してゆくでしょう。昼間暇のない人間は遊ばないという理屈もなり立つかもしれないけれども。
いづみ子のたよりお気に入ってうれしいと思います。あの子と睦しい好ちゃんの様子は、見るめもうっとりさせる風情ですね。好ちゃんの爽快溌溂の姿は目にさやかなるものがありますから。わきまえのいい子だけれど、それでもあの子が自分のうれしさや元気でわれしらず身じろぎする刹那も、なかなかの若武者ぶりです。私は気に入って拍手をおくる次第です。濃紫の菖蒲の花の美しさ。
林町のうちでは、まつ[#「まつ」に傍点]がお嫁にゆくのに代りの人がなくてああちゃんは眼をキョロキョロよ。〓りにしろ誰かとしきりに心がけ中ですがありません。多賀ちゃんは来年の四月か三月まではいるそうですが、やはり誰かいなくては困ります。そのうちに又何とか事情が変るかしら。しかし昔は農家の娘が東京へ来れば白いお米がたべられると云ったのが、今は東京さいげば、南京米食わにゃならんぞい、ですからね。全然逆です。着るものだって、ちっとのお給金では銘仙もかえはしません。
達ちゃん明日あたり島田でしょう。お母さんへお祝いの手紙さしあげたとき、かえったとき人はなかなか落付けないらしいし、むしゃくしゃして腹立ちっぽくもあるそうですから、その気分は毎日、着実に家の仕事をやってゆくのが一番いいそうだからそのようにして、フラフラにさせてしまわないよう気をまぎらすことで解決しないからと申上げておきました。まぎらせる部分は、ごくの表面です。伍長にスイセンされたのをことわってかえった由、家のことを考えて。卯女ちゃんが、栄さんの会のとき、松山さんの男の子とお手々つないで歩いていました、もう歩くの。では又。
五月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月四日 第三十一信
この間のときも雨になって、又きょうも雨になりました。どんな龍が昇天するというのでしょうね。疲れていらっしゃるとき、雨だとやすまるでしょう? 風がさっきみたいにゴーゴー云って吹いているよりはましでしょう? よく眠れるようでしょう。うちはたしかに雨の方がましです。ひどい風だからけさ二階の雨戸しめたままにして出て、かえって、今さあ雨だから、とあけて掃除したところです。
あしたは日曜日なのねえ、つい忘れていて、さ、あしたは早く出かけてと云ったら、たかちゃんに笑われて、アアーンアアーンと泣きまねをいたしました。
仕方がないからこれをかきます。きょうは、この前回よりはおくたびれにならなかったでしょうか。次まで間があるから幾分ましでしょうと思われます。
第十二巻は買うことが出来ました。近日届きます。てっちゃんのところへのお手紙、小説がよみたいというお話、私はこの間うちから思っていたの。そうなのじゃないか、と。そうなのが自然な気がして。ですから大変よくわかります。本当にいいものをあげたいと思いますが、近頃ではいいもの飢餓でね。きょう私がもってよんでいたのは、マルタン・デュ・ガールという人のノーベル賞をとった「チボー家の人々」の第六巻です。白水社から送ってくれてずっとよんで居りますが、少くとも主人公ジャックは真実をもってかかれています。「ジャン・クリストフ」なんかも今は、又別様の面白さでおよみになるでしょうね。こんど御相談しましょう、どっちかをおよみになったら? 人間生活の奥行の深さ、向上してゆく光景を悠々と描き出したものが、という御希望に、それはこれよ、これなのですけれど、と自分のものを示せたらどんなにうれしいでしょう。
人間生活の奥行の深さ、この表現は非常に豊かで含蓄的で、そして私のリズムに響きをつたえずにいないものをもっている。深い奥行のなかに、生きているもの、脈動しているもの、人間の行動の真の動機ともなっているもの、そういうあらゆる生々しいものがあるということは何とそれをまざまざと芸術に表現されてあるものとして読みたいでしょう。そのように表現しているものとしての作品をかきたいでしょう!
この正月に書いた「おもかげ」と「広場」とは、そういう人間の一つの姿と歌声ですが、それはひどい風に吹きちぎられて途切れ途切れに、しかも熱烈に響く歌声のようなものとなりました。
この二十六日づけのお手紙は、いろいろ大変面白うございます。ちょいちょいしたところが、おのずからちがったトピックのちがった語りかたとなっていて。わきに坐っていて、よそのひとと話していらっしゃるのをきいている面白さ、その面白さです。小説でいうと、題材が多すぎない程度でかかれている作品のゆとりのある面白さとでも申しましょうか。私はよくばりでしょう? オヤオヤと笑っていらっしゃるでしょう。でも私のこのよくばりは、自然なものとして自然承認されているのだから、相当でしょう? 私への一番いいおくりものだということは、国男君でさえ万々承知というのですから。
すっかり目白のところがきのが、一通あります。てっちゃん目玉クルリとさせて、肯いている。そんなものね。
スフ足袋物語、つめたいようでいつの間にかぬいで毛布に足を突こんでいらっしゃったという話。
覚えていらっしゃるでしょうか、いつか夜中勉強していておなかすいて来てゆで玉子をこしらえたら、何かの工合でむいたらカラについてしまって、まるでデコボコな妙な風になってしまったことがあったでしょう、あのとき、あなたへーんな顔して見ていらしたけれど、とうとうあがらなかった
前へ
次へ
全59ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング