2−22]自然であるだけなのですもの。そして、ごちゃごちゃした男女のいきさつをだけ書く趣味のないのも私の自然で仕方がないわ。(自分のその面での芸術的価値のことは又別です)
さて又困ったことが出来ました。ハガキが来て、古田中さんという母の従妹に当るひとの病状がよくなくて早く会いたいと云って来ました。このひとは糖尿だったのを永年放っておいてもう五十何歳かで悪化していて、私はこの間うち迚も行けなかったから、この間西川から坐布団を見舞いに送らしたら、それが気に入って愈※[#二の字点、1−2−22]会いたくなったのですって。困ったこと、ではあしたでも一仕事すまして出かけなければなりますまい。このひとは、ああ覚えていらっしゃるでしょう? 私たちにあの奇麗な白藤の花をくれた夫人です。私たちごひいきのひとです。もうずっと会いたがっているのについ行けず。
女のひとは男よりこういう病気をこじらします。男は大切な仕事があり、そのために忍耐して加養します、女はうちにいて、自分の体に自分が使われて病もわるくするし、はたにも苦痛を与えることになってしまいます。その点は林町の母もそうでした。ちっとも長生しなかった。
何だろうユリは。何故仕事しないでこんなこと喋っているのだろう、とお思いになるでしょうか。でもきょうはそれは仕方がないとおわかりでしょう?
この手紙御覧になる頃は、きっとムと口をしめて机についているでしょうから御安心下さい。ああ、円い大きい着物の小包がつきました。うちは本の置どころがないようです。でもね、これだけはあなたに一杯くわされたといつも呵々大笑するのですけれど、あのビール箱にいくつもの本ね。今不自由しているのよ、あれがパイになってしまったから。鴎外全集なんか、こんどかくものにも入用なのにないでしょう? 近代劇全集がないでしょう? いろんな泰西名著文庫がすっかりなくて、改版がないでしょう。あれが今売らずにあったらほんとに役に立ったのに。あんまりあなたがあっさり仰云るもんで、ふーとその気になったのが間違いのもとでしたね。(但、ここのところ、いく分誇張ある文句ナリ)
あれから家憲が出来たのよ、申しませんでしたね。どんなボロ本も本は売るべからず、というのです。これは宮本家の家憲ですからどうぞ。この頃は古い本の価《ね》が一般にずっと高くなりました。例えば一円八十銭ぐらいの本でさがして買うと一円二十銭ぐらいのところです、ものによっては三倍以上です。紙がないばかりでなくものによって上るのですから。人間にあてはめると、それに準じて価上りなわけですね。表現は妙な形体をとるが。逆のような。
重治さん、つとめやめた話[自注1]をおききですか、円満辞職の由、ほっとしたでしょう。きっとモンペはいて、ヤヤと頭ふって、庖丁といだり干物をとりこんだり、ガリガリ頭かいてふけを落して眉間に突如竪皺をつくったりしていることでしょう。詩人出のひとって妙ね、鶴さんきょうこの頃はズボンの先のうんとつまった洋服姿で長火鉢の前に居ます。私評して曰く「毛のぬけた軍鶏《しゃも》に近い。」本当です。
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[自注1]重治さん、つとめやめた話――中野重治は、市の知識人失業救済の仕事に勤務していた。
[#ここで字下げ終わり]
四月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(木村荘八筆「庭樹」の絵はがき)〕
四月二十七日、只今丹前を送り出します。あれをかってかえりに、偶然こんな展覧会を見ました。色がないからつまらないけれども。荘八は荷風の「※[#「さんずい+墨」、第3水準1−87−25]東綺譚」あたりからこういう線をもって来て居ります。例によって芝居絵もありました、これと雪の庭が一寸面白うございました。
四月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月三十日 第二十九信
ふっと灯のない部屋に入って来て、ガラス越しによその家からの明りが木の葉のかげをうつしながら、おぼろ気に部屋にさしこんでいるくらがり、大変に面白い気持です。暫くそのままにいます。このなかで書けるといいのに。こんな部屋の暗さ明るさのかげの交った光景は、夏の暗い部屋を思いおこさせます。その暗い涼しい夜の部屋へどこからともなくさしこんで来ていた光りを思いおこさせます。足さぐりに来て、ぶつかる体をそこに感じるようなそんな心持を思いおこさせます、静かな明暗のうちにある深い快い眠りを思いおこします。これからの夜には、こんな明るさ暗さがこの二階の部屋にも訪れます、何と面白いでしょう。何と様々の情景をふくむ明暗でしょう。
きょうは、朝からあの刻限まで獅子奮迅の勢で古典研究の歴史文学について二十九枚かき終り(半分はきのう)深い興味と感想をもってかき終り、そーらすんだと下りて速達にして、御飯たべてそこへ『都』のひとの来たのを、御飯たべたべ喋って(仕事のうち合わせ)出かけました。
三日まで行かないつもりでしたけれども、どうしてもそれではもたないのですもの、仕方がないわ。御褒美をいただくというわけでダーとかけつけたわけです。
それからのんきに根津山の新緑の美しさ、その新緑のなかに黒い幹々の新鮮な色を絵にかきたいと思いながらかえったら玄関にかけて待っている人。子供のための雑誌をやる人です。チャペックの訳をしたりしている人です、チャペックのあのつよい面よりはそうでない面からチャペックの芸術にふれ近づいて行ったという人柄の人です。私の知っている娘さんと結婚したばかり。その人といろいろ編輯上の話をしていたら『古典研究』の若い人が来て、秋の特輯の下相談です。玄関で中腰で話す。私に芭蕉の抒情性をかけとのこと。日本文学の抒情性特輯の由です。私が先頃『新女苑』に芭蕉のことかきました。それがよかったからとわざわざすすめた人がある由。しかし三十枚もそういうものをかいていたら又々私の小説は消えてしまいますから、大体においてことわります。日本文学の抒情性というものは、それは正確に扱われなければならないものではありますけれど私一人ではやりきれないわ。そうでしょう?
そんなこんなが一応片づいて午後四時すぎ。寿江子が来て、悄気《しょげ》て私の膝を枕にしてころがったから頭をなでていてやったら、寿江子のつかれも癒ったようですし、私の気持も又のんきになりました。寿江子は和音《ワオン》の教師が(作曲上のテクニック)みみっちい気持で教えおしみをすると云ってしょげているの。やがて気をとり直して、「マアいいや」というわけ。「自分はこれまでいろいろましな人にばかりふれるときが多かったが、そうやって世間普通の根性の人ともつき合ってみるのもわるくないや」というわけです。ピアノをききにゆくというので、ひとりだけ早く玉子をゆでておかかかいて出かけてゆきました。
私はそれから今日限りの所得税申告を書き込まねばならず、急いで夕飯すまして、それをやって速達にしてかえって、やっとのうのうとしてこんやはこの手紙だけにいたします。
随分永らくかきませんでしたね、十九日に書いたぎり何てひどかったのでしょう、でも私は今日は今日はと思っていたのよ、カタンカタンとガラスをあげたりおろしたりして、度々受箱を見ていたのよ、でも来やしない。
二十日からきょうまでに「行人について」(『新潮』)8枚、『婦人画報』のかく月の巻頭二十枚、学生の新聞のために石川の「結婚の生態」評七枚。それからこの「歴史文学について」二十九枚、十日に六十九枚はわるくないでしょう。どれも皆勉強のいるものでしたから大変でした。
歴史文学は本当に面白かった、鴎外、芥川、菊池の主な歴史を素材とした作品をよみました。露伴もよんだがかきませんでした。露伴は、歴史が常に権力に屈したものであるということを力説している、そして頼朝、為朝、蒲生氏郷など、なかなか面白うございますが、つまりは露伴流の人物論ですね。そして露伴の面白さも弱みも、彼が江戸っ子流の侠気と物わかりよさとをつよくもっているというところですね。彼が小説家としてねばりとおさなかった所以を過去の人たちは、彼がえらすぎるという風にいうが、そうではないわ。達観を主観的にしているからです。決して支那流の哲人でもないし、強烈な精神の独自性というのでもない。名人肌の一くせある爺さん(勿論内容豊富也)というところですね。ですから人物論としてのそれらの作品は、なかなか面白くて所謂膝を打って大笑す、というところもあるけれども、その面白さで彼は小説家でないことが語られているような工合です。
鴎外の「阿部一族」は雄大複雑な歴史小説で封建のあらゆる枠は枠なりに肯定したところで、その中での性格相剋の悲劇、君臣の臣の負担となるその結末、情誼が、人の生かしかた、生きかた、死しかた、死なされかたなどのうちに表現されなければならなかった姿を、武家気質の範疇での感情行為の必然にしたがってよく描いています。
しかし鴎外は、この時代の枠へ人間の心をこすりつけてはいないのよ。こすりつけられた人間の魂の熱さと重さとで枠がゆすぶれるものとは見ていません、その点彼の現実の順応性が実によく出ている。
このことは逆に「高瀬舟」で、白河楽翁時代の江戸の一窮民の遠島されるときの物語にある財産の観念及ユウタナジイの問題を、鴎外がいきなり一般人間性という自分の主観からとりあげているところにもあらわれていると思います。一窮民と扶持《ふち》もちとでは同じ時代に於て財産の観念は巨大にちがいますし、ユウタナジイのことにしろ、武家のモラルは楽に死なせてやる武士の情というものを承認しているのだから、庶民の男が罪せられたのとはちがった見かたもあったわけです、その現実の相異を、鴎外の主観は何と云っても身分的な差別は失っていて一般人間性のこととして見る丈歩み出していて、その進んだところに止った意味で限界の示されている面白さ。そこから、鴎外が歴史へ働きかけてゆく作家の目と心とを否定して、抽斎などの伝記ものをかくに到った過程はよく分ります、そして鴎外は歴史に向って作家としての手をはなしてしまった。
芥川はあくまで歴史小説をかいたのではなくて、主観の課題を「地獄変」や「戯作三昧」に表現したこと、しかも何故それを、例えば芸術性と社会性の問題の苦悩をトルストイの矛盾に於て描かず馬琴をとらえたか。そこにあるかしこさとよわさ。それが歴史の中に自分を把握させる力のなかったことと一致していて、歴史のたぎり立つとき、何となしの不安に敗北したということ。面白いわね。菊池のテーマ小説が、封建のしきたりに抗して生命への執着やその適応性や英雄打破に向ったことはプラスながら、彼にあってのその合理性は、世上云われるようにショウの相伝ではなくて極めて日本のもの彼のもので、合理性は自然主義のものをもっていて、つまりは常識のものであること、従って、芥川を死なさせた波は彼を大衆作家にしたという歴史とのかかわり合いの姿、こういう対比は大変面白くてヴィヴィドです。そしてユニークです。しかし、彼が徐々に大衆作家になりつつあるときは、日本の文学に質的な一変転がもたらされて、歴史を、寛のみたように個人の利害、ひょんなめぐり合わせ、など以上のものとして見る歴史を歴史として動く姿でかこうとして、「磔茂左衛門」や「綾里村快挙録」が生れたこと。現在の歴史小説とは、今日の現実とどういういきさつにあるか、つまり「島崎藤村」というような伝記小説の現れるのは、日本の文芸思潮のいかなる低下と喪失によるものか云々というのです。
面白くてとりつかれたようにかきました。近頃の快作。だから、きっとさっきぱっちりしていたのでしょう。
今月は半分はフラフラだったけれども、それでも実にこまこまと百十枚もかきました。種目は十二種よ。細かいこと。
大分あとへのばして貰うやくそくにして五月は、前に半分までかいてある古典読本の現代文学を六七十枚かいて、『文芸』のをかき終って三回分ぐらい60[#「60」は縦中横]枚迄、まとまったのはもうそれで、小説にかかります。『都』へ十日ぐら
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