いますね、奥の深さ、そして前方の平らかなひろがりの調子。墨だけです。いつかの仙樵の描法を思いおこし龍子の才筆の或るくずれを感じます、御同感でしょう?
十二月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月九日 第八十二信
五日づけのお手紙、きのういただきました。ありがとう。「朝の風」のこといろいろ。でも笑えてしまったところもあります。だって、「本旨に反する[#「本旨に反する」に傍点]」とかいてあるのですもの。それはそうだけれど、でもやっぱりおのずと笑えて来る或る健全なユーモアがあります。
いろいろの点よくわかります。しかしね、ああいうものになった心理にはつながりが重く長いものがあって、夏の末ごろのあの買物ばなしの大きいつよい波がしずまらず、本当に私は病気になる位のところがあったから、その心持であれに執し、同時にリアリズムの衰弱もおこしたのです。でも自分でその病気はよくわかって居ります、大丈夫よ。あれをともかく通って、私は先へ歩めるのですから。自分の病気というものを客観的にみて、そこへ二度と足をひっかけまいとするいろいろの芸術上の課題について考えられるようになりますから。
今年一年の小説の仕事はいろいろ大変有意義であったと思います。「広場」「おもかげ」「朝の風」、そういう系列のもの、それから「第四日曜」「昔の火事」「紙の小旗」という系列。それは来年にはずっと統一されて、主観的素材のもの、客観的素材のものとが、一つの現実への情熱のなかにとかされるようになり、それで初めてやっと一束《ひとたば》のものとなります。
来年は勉強した素材で、出来るだけどっさり小説をかきます、たのしみ。こまかいものを書いてくれ、と云われなかったら万々歳なのですが。今のところ余り評論もかきたくありません。片々たるものは本当にいやです。雑誌の頁数がへりますから、どこでも片々となりやすいのです。評論ならやはり一つのテーマを自分でちゃんともって、それを毎月少しずつ書いてゆくという風なら、本当に成長に役立つでしょう。その方法をきめてやりとうございます。いずれにせよ、来年は小説の年です。
「朝の風」の「アパート」のこと、あの上に、人が自由に住む云々という文章があったと思います。けれども読者がそこにあるものを感じないとすれば、やはり不十分であることは明かですが。
二十六日からあと、きょうがはじめての手紙よ。『都』に文芸時評二十枚かいたのち、岩波の『教育』へ二十枚、「紙の小旗」二十一枚、あとこまこましたもの三十枚ほど。間では多賀ちゃんのおつき合いをいたしましたし。
多賀ちゃん七日の夜九時十分でかえりました。荷物が迚《とて》もどっさりでね、超過二円四十銭とかとられたそうです。おまけに一つの方の量が多すぎて、駅でつめかえをしたりして、夕飯をたべて一休みして時計を見たらもう八時、ホラ大変というわけで大あわてして出かけたら、いいあんばいに学習院の角の駐車場に車がいて、それをつかまえて四十分前に東京駅へつきました。まだ車輛が入ってもいまいと思ったら、九分どおりの人がのっていて、びっくりしました。寿江子と咲枝見送りに来ていて、林町へその前々晩送別会によばれ、大よそゆきの草履を貰い、寿江子にも何か貰い、てっちゃん、佐藤さん、稲ちゃん其々からお餞別貰って、多賀ちゃん大ほくでした。
丁度忙しい最中、家じゅうごたごたしていたので、私は疲れました。きょうは風が吹くけれど静かで、お客もなくて、ずっと机にいて一つ仕事終って、これをかいて居ります。又今夜も早くねて、あしたの朝なるたけ早くから校正をやってしまって、そちらへ行って、かえりに小川町の高山へ届けましょう。
校正そこで待ったりしているとき出来るように一つ万年筆をかいました。3.50 也。アテナ。丸善。金ペンはありませんですからパラテナというのでペンが出来て居ります。「それで書くとこんな字になるのよ、ザラつきます。ちがうでしょう」でも校正は紙がザラですから、どうせいいの。
多賀ちゃんのかえるついでに島田と河村と野原とみんなおせいぼをわたしてしまいましたから大安心です。丁度『明日への精神』の増刷の分が来たので大助り。歌舞伎を見せ、水谷八重子というものを初めて見物いたしました。新派というものの講談社性はどこかもうああいうひとの身にしみついているのね。八重子は情熱のとぼしい女優ですね、ひどく心情のひろがりの乏しいひとです。つまらない女優であると思いました。松井スマ子は子供のときみたぎりですが、目にのこっている生活力がありましたが。本当の芸術的なところがあったのね、八重子は何だか子役から段々仕立てあげられたというものに見えます、そういう演技とつまらなさがあります。歌舞伎では「演劇の健全性」というもののむずかしさがむき出し
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