いかしら。
 さあ、元気を出して仕事しましょう、でもまだヒンクスのGをつかっているのは心がけいいでしょう? 文房堂へこの紙がましだから買いに行ったら、原稿紙はどうかということで、ついこの間 68S だったのが 75S になった由。私のつかっているのは一レン 4000 で二六円二〇銭かでした。この紙は目つけものです、もとの仕入でしょう。もとかいていたポクポクのよりはずっと楽です、つかれかたがまるでちがいます、第一こんな先のちびたGなんかであっちではこの字はかけませんものね。ひと仕事して夕飯の仕度に多賀ちゃんと五時すぎ外へ出たら、マア、何という月でしょう。空は一面青くて月ばっかり出ているのですもの!「ああちくしょう」と云ったら、多賀ちゃんが、「何で?」ときくの。「だって月が出てるじゃないの」勿論これはきわめて非論理な問答です。あんまり飛躍していると思ったと見えて多賀ちゃんも、ついについて来かねて、折かえし質問はいたしませんでした。
 昔の伝説ではないけれども、二十日すぎると私は何となし落付けなくなります。
 二十四日
 すこし風立っているけれどもおだやかな日ですね、きのうはやっぱり特別な二十三日になりました。朝早く九時すぎそちらへ行って、四時すぎまで居りました。マルグリット・オオドゥウの「街から風車場へ」という小説の終りの部分をよんでしまって、それから三和土《たたき》の上にみかんの皮やキャラメルの紙のちらかっているところを眺めたり、どっさりの男の子や女の子の顔が、何て一つ一つおふくろさんの顔に似ているのだろうと思って念を入れて、その子の対手の女や男まで思い泛ぶようにして見たりしました。午後になってから気分が楽天的になって、いろいろ書いているもののことについて考えたりして居りました。一日同じ建物にいたわけ。
 それから、大変待たせて、云々という御挨拶を伺って、家へかえりました。五時には家を出なければなりません。四時半ごろについたら、てっちゃんが丁度来て茶の間に待っていました。いきなり旋風を捲きおこす形で私が入って行ったので、ホウホウという次第です。それから大いそぎでお雑煮をたべて、着物きかえて、そこへ入って来た彌生子さんと一緒に家を出ました。
 座談会は木々高太郎、奥むめを、私よ。『新女苑』。十時すぎ散会。かえりに目白駅まで送られて、そこで自動車をおりました。
 写真屋の横からずっと入って、左へ行くところを右へぬけました。先のうちの前。門はしまって、寝しずまっている。月は中天にあるから濃い自分の影が足の前に落ちて居ります。そして街燈の灯はぼやけて、もっと大きい薄い私の影をすこし斜《はす》かいのところへ投げるので、砂利をふむ草履の音をききながら、あすこの道をゆく私には二つの影があるのよ。二つの影は何という感じを与えるでしょう! ブッテルブロードをもってかえっていらっしゃるあなたの影も二つあったのだと思います。胸の中で生きものがねじられるようです。そして、歩いて来たの。
 特別な疲れかた故、多賀ちゃんが風呂をわかしておいてくれたのが本当にうれしく。ゆっくり入って、そして、思い出すの。何て夢中で入ったお湯だったろうと。床に入って薄くあかりつけて、なかなか眠りが来ず。しずかな寝息がきこえるようなのですもの。凝《じ》っとその寝息の感じを聴いていて、又胸の中の生きものが体をねじるのを感じます。そして、バロックの装飾に、アトラスが下半身は螺旋《らせん》の柱によじられた形でつかってあるのなどを思い出し、そういう様式化のなかに何という残酷さがひそんでいるのだろうなどと考えます。
 あなたは体がよくおありにならないから、私のなかの生きものが身をよじる話なんかしてはいけないのだ、とも思うの。自分がこんな気持で、座談会で、女の生活のいろいろのことについて話す。生活というものの複雑なおもしろさ、そして又女の生活の自然な開花を希う私の心に女として何と痛切なモティーヴがあるだろうと思ったり。
 涙は出さず、眠りました。
 けさ、ひどく早く半ば目がさめ、夢のように、ああ今朝と思いました。暫くそこにある情景のなかにいて、又眠って、けさはおそくおきました。
 そしたらくたびれは大分ぬけて居ります。きょうは一日家居。『日本評論』に十五枚ほどつるさんの評論の書評をかきます。評論対評論風にではなく、作家があの本から得て来るものについてかくのです、その方がよむひとにわかりやすいから。
 その前にどうしても手紙かかずには居れなく、しかもやっぱりこういう手紙を。でも私は書きつつ、ああいいよ、と云われている声や眼やすべてを感じて居ります。これは正銘だと思います。単数で表現されているものではないと思われもします。ああだけれども、やっぱりこの顫音は消えないわ。いろいろな頭のはたらき。い
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