ことがありました。私はよくそれを思い出して、様々に人間の心の本人もはっきりは自覚しないようなニュアンスの面白さ、女はそれをたべるという気持のうちにあるつまらなさ、いろいろ思うのですが、このスフ足袋物語には、あなたのそういう自然なところが感受性のままに流露していて、本当にあなたらしい。こういうものをよむとうれしい気がいたします。そして私へ下すった二十四日の分をよみくらべたり、二十六日のその分をよみくらべたりして、あっちやこっちから眺めるように楽しんでいるというわけです。
 ああそれから、てっちゃんに話していらっしゃる三省堂の『英独仏白図解字典』というのは、これはドーソンのを訳したものか、まねしたものではないの?
 十八日も土曜日で、それは結構ですが、土曜日の次は日曜日であるというのは私にとって不便です。やっぱりこんなにして手紙かかなくてはすまないのでしょうと思って。
 もし十日に天気がよかったら、うちの二人と寿江子とてっちゃんの一家とで稲田登戸《いなだのぼりと》の山の青葉の蔭へ寝ころがりに出かけます。うちではたけの子の御飯のべんとうをつくります。私はすこし歩いてどっさりのんびりして来るつもりです。歩きたいひとは、どうぞとしておいて。
 きょうかえりに日比谷公園をぬけました。つよい風が欅の若葉をふきつけていて、柔かい葉房が一ふき毎に大変鋭い刷毛《はけ》ではいた三稜形になって、ああこんなタッチで描いたら面白かろうと興をひかれました。いかにも瑞々しく柔かで、それで瞬間の刷毛めはいかにも鋭いの、面白いものですね。それで截《き》られそうに鋭いの、若葉だからこそ出る鋭さで、そこが又面白いと思いました。嵐っぽい灰色の空のそういう緑の動きは美しいと思います。
 今夜はうちはみんな早寝です、雨の音を気持よくききながら早寝です、もうすぐ寝ます。
 そう云えばこの頃は水道がひどい渇水で、午後四時ごろ全く出ませんでした(きょう)。こんなおとなしい雨では、村山の貯水池の底までひりついた水が果してどの位ますのでしょうか。中途半端な都市というものの生活のシニシズムというものは。首都なればこそ水の憂いもというようね。明日は五月五日。きれいな濃紫の菖蒲の花を飾ります。

 五月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月五日  第三十三信(きのうのは二信ね)
 三日づけのお手紙けさつきました。これでなみの調子になりました。
「暦」や「素足の娘」およみになったら又いろいろ感想がおありになって面白いでしょうと思われます。栄さんのように持味と話しのうまさで、自然かくひとの到達したところとその逆のものとの関係がはっきり感じられて面白いと思います、本気で云えば面白いどころか、こわいし、自分がそうだったらどうだろうと思わせられるものではありますが。「素足の娘」についてもいろいろの印象があります、およみになってからまた。
 私のこの頃、かくのは感想と評論ですが、この頃のは随筆風ではないの。自分でも本にでもすれば、こんどはきっとしゃんと評論として押し出した題をつけるでしょうと思います。随分勉強してかいているのですもの。そういう実質の仕事しているのですから、その限りでの自信もありますから。でも私の本はそうやすやすとは出ますまい。この間も下らぬデマがあると、雑誌の広告の中ですぐ名も何もふせて、やがてデマとわかって出すという調子ですから。そういう点について、あるスタビリティが商売人に感じられないと、紙のないところを安心して儲けられるものへとゆきますから。それは彼等の打算の心理です。編輯をする人と出版をする人とでは、この点で全く相反したような見解にいて、今日の文化性としてなかなかヴィヴィッドです。文化の面からの必要とか価値とかいうとそれははっきりしているのね。その他の面からのそろばんになると、肩越しに鬼がのぞいている幻想にとらわれるのでしょう、又本当にのぞきもするしね、いやあね。
 封建的乱暴さのこと。いろいろ非常にむずかしいのです、ふだん一緒に暮していませんでしょう? いろいろ知らないわけでしょう? それを私が知っているとすれば、それは咲か寿が話したことのわけでしょう、それらのいきさつから、その二人があとで却って妙になるような場合の経験もあったりして。あのひとは昔から私がじっくり腰をすえて二時間もかかって話せば、そのことは十分わかるし納得出来るのです。けれども涙なんか出すほど本気で傾聴して「ほんとに僕は不思議と思う、だって姉さんはちっとも自分の得になりもしないのに、こんなに考えていてくれるんだもの。僕も二三日今の気持でいられたら、すこしは偉くなっているんだけれど、一晩ねるとケロリとしてしまうんだから困る」というのですものね。決して愚弄して云っているのではないのよ。本当に傾
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