い迄に「読者論」をかきます、これはこの二三年間の読者と作家とのありようをかいて見るつもりです。文化批評として面白いと思います、こまかく落付いてかくつもりです。
こういう工合で、徹夜はなしです。でもこの間うちは何となし工合わるくて、朝心地よくおきられず。そういうときは、よく仕事出来るときひる間三十分か一時間、上手に一寸眠ってよく休む、そういう眠りかたが却って出来ず、眠ったら猶気分わるそうで眠れず、しかもはきはきせずという工合でした。もうすっかり緑になりましたから大丈夫よ。これからは益※[#二の字点、1−2−22]パッチリです。
読書は又肩をすくめて。ヨンジュウ八マイ(頁)。しかし私はあの「三月の第四日曜」の男の子のその後の運命を近頃現代の少年の運命としてひどく心をひかれて居ります。少年の犯罪が激増しているということは心を痛ましめます、彼等の訴えが耳に響いて来ます。その響はこのささやかなヨンジュウ八マイのなかにつよくつよく反響いたします、人間の心の代償は誰からも払われないということは。
私の創作的アペタイトは、「第四日曜」の男の子の顔つきを髣髴《ほうふつ》といたします。本当にいろいろのことにふれ、いろいろの心にふれたいと思います。
――○――
達ちゃんかえって来て何とうれしいでしょう。きょう、「よくかえって来たね」とおっしゃいましたね。「一九三二年の春」という小説の終りの唯一の小説らしい言葉を突然思いおこしました。昔のひとはこの感情を「よくぞかえりつるものかな」と表現しました。本当によくかえって来ました。いつ頃うちへかえるのでしょうね。お祝に私がゆかない代り、あなたと二人の名で、この間お送りしただけお送りしておきましょう。
久しぶりで随分どっさりいろいろと話しました。私はこの手紙がなるたけ早く着くようにと心から願います。
今夜は枕の下に詩集をおき眠ります。その中からの抜きがきを近いうちお送りいたしましょうね。
五月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二日 第三十信
今頃多賀ちゃんが、あおい着物で、そちらで喋っている頃でしょうか、それともぼんやりこしかけてラウドスピーカアをきいている時分かしら。
私は今『文芸』の校正が終りました。先月おくれた「転轍」を今日にまわしたのです。ゲラの紙が全く粗末なものだから字がしみて本当にきたないの。よめるかしら。よめないかしら。そう思いつつ封をしたところです。『文芸』は只でさえ、ミスの多いところです。
ひどい風になったこと。例によってうちはガタガタ云って鳴りはためいて居ります。
御気分はいかが? そちらは、こんな風でも、仰向いてねている顔に天井うらの無数の埃がふりかかる感じだけはありませんですね。
きのう、私は顔を仰向け青葉のそよぎがそのまま自分の体となったような気分でかえりました。
今年私は桜も美しいと思って見たし、若葉の色もこんなに眼や気持に沁みとおって。どこやらしず心がかえって来たのかしら(いい意味でよ)。もしそうだとすれば、うれしいことね。そして、そのよって来るところの意味で、あなたもやっぱり御満足でないこともないでしょう?
きょうは些か閑暇ありですから、すこし詩集の話をいたします。あした、あさって、おいそがしいけれど、きっとこれはその後のすこしのくつろぎのとき着くでしょう。詩集とは別だけれども、きのうそんな心持で、夜もずっとその心持がつづいて、胸が余り優しくきつくしめられて、何だかまばたきしても、それがこたえる有様でした。だって、私がまばたきをすれば睫毛《まつげ》はめのなかにある輝いた顔の面をあんなにさわるのですもの。さわる感じが全身をはしるのですもの。電車のところに立っているとき、後を誰か、すと掠めて羽織のそとを掠めたら身ぶるいがしました。若葉の風というものはこんなにしみるものなの? こんなに枝もたわわなものであったのね。新緑の上に鯉幟が見えます。
詩集のなかに「五月の挨拶は」というの、覚えていらっしゃるでしょうか。大変この頃の情景にふさわしい爽やかな、しかも生命にみちた詩句です。「五月の挨拶は 若き樫の梢 みどりの小旗をかかげ」という冒頭で。うれしい五月の日、芳しい草原のなかの若い樫の木は、いのちに溢れて気品たかく、しかも天真に、一つの泉に向って挨拶しようと、ゆたかな梢をもたげつつ、燃ゆる緑の小旗をかかげます。緑の小旗は、日光にきらめき、風にゆれ、何と強靭に美しく、はためいているでしょう。泉は溢れるしぶきで、珠のかざりをつけながら、ふきあげふきあげて、梢の挨拶にこたえるのですが、泉は地のもので、そこに在るしか在りようがないという自然の微妙さに制約されているのです。この泉の自然への従順さと歎きとは非常に幽婉な趣きで語られていて、
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