がして買うと一円二十銭ぐらいのところです、ものによっては三倍以上です。紙がないばかりでなくものによって上るのですから。人間にあてはめると、それに準じて価上りなわけですね。表現は妙な形体をとるが。逆のような。
重治さん、つとめやめた話[自注1]をおききですか、円満辞職の由、ほっとしたでしょう。きっとモンペはいて、ヤヤと頭ふって、庖丁といだり干物をとりこんだり、ガリガリ頭かいてふけを落して眉間に突如竪皺をつくったりしていることでしょう。詩人出のひとって妙ね、鶴さんきょうこの頃はズボンの先のうんとつまった洋服姿で長火鉢の前に居ます。私評して曰く「毛のぬけた軍鶏《しゃも》に近い。」本当です。
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[自注1]重治さん、つとめやめた話――中野重治は、市の知識人失業救済の仕事に勤務していた。
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四月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(木村荘八筆「庭樹」の絵はがき)〕
四月二十七日、只今丹前を送り出します。あれをかってかえりに、偶然こんな展覧会を見ました。色がないからつまらないけれども。荘八は荷風の「※[#「さんずい+墨」、第3水準1−87−25]東綺譚」あたりからこういう線をもって来て居ります。例によって芝居絵もありました、これと雪の庭が一寸面白うございました。
四月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月三十日 第二十九信
ふっと灯のない部屋に入って来て、ガラス越しによその家からの明りが木の葉のかげをうつしながら、おぼろ気に部屋にさしこんでいるくらがり、大変に面白い気持です。暫くそのままにいます。このなかで書けるといいのに。こんな部屋の暗さ明るさのかげの交った光景は、夏の暗い部屋を思いおこさせます。その暗い涼しい夜の部屋へどこからともなくさしこんで来ていた光りを思いおこさせます。足さぐりに来て、ぶつかる体をそこに感じるようなそんな心持を思いおこさせます、静かな明暗のうちにある深い快い眠りを思いおこします。これからの夜には、こんな明るさ暗さがこの二階の部屋にも訪れます、何と面白いでしょう。何と様々の情景をふくむ明暗でしょう。
きょうは、朝からあの刻限まで獅子奮迅の勢で古典研究の歴史文学について二十九枚かき終り(半分はきのう)深い興味と感想をもってかき終り、そーらすんだと下りて速達にして、御飯たべてそこへ『都』のひとの来たのを、御飯たべたべ喋って(仕事のうち合わせ)出かけました。
三日まで行かないつもりでしたけれども、どうしてもそれではもたないのですもの、仕方がないわ。御褒美をいただくというわけでダーとかけつけたわけです。
それからのんきに根津山の新緑の美しさ、その新緑のなかに黒い幹々の新鮮な色を絵にかきたいと思いながらかえったら玄関にかけて待っている人。子供のための雑誌をやる人です。チャペックの訳をしたりしている人です、チャペックのあのつよい面よりはそうでない面からチャペックの芸術にふれ近づいて行ったという人柄の人です。私の知っている娘さんと結婚したばかり。その人といろいろ編輯上の話をしていたら『古典研究』の若い人が来て、秋の特輯の下相談です。玄関で中腰で話す。私に芭蕉の抒情性をかけとのこと。日本文学の抒情性特輯の由です。私が先頃『新女苑』に芭蕉のことかきました。それがよかったからとわざわざすすめた人がある由。しかし三十枚もそういうものをかいていたら又々私の小説は消えてしまいますから、大体においてことわります。日本文学の抒情性というものは、それは正確に扱われなければならないものではありますけれど私一人ではやりきれないわ。そうでしょう?
そんなこんなが一応片づいて午後四時すぎ。寿江子が来て、悄気《しょげ》て私の膝を枕にしてころがったから頭をなでていてやったら、寿江子のつかれも癒ったようですし、私の気持も又のんきになりました。寿江子は和音《ワオン》の教師が(作曲上のテクニック)みみっちい気持で教えおしみをすると云ってしょげているの。やがて気をとり直して、「マアいいや」というわけ。「自分はこれまでいろいろましな人にばかりふれるときが多かったが、そうやって世間普通の根性の人ともつき合ってみるのもわるくないや」というわけです。ピアノをききにゆくというので、ひとりだけ早く玉子をゆでておかかかいて出かけてゆきました。
私はそれから今日限りの所得税申告を書き込まねばならず、急いで夕飯すまして、それをやって速達にしてかえって、やっとのうのうとしてこんやはこの手紙だけにいたします。
随分永らくかきませんでしたね、十九日に書いたぎり何てひどかったのでしょう、でも私は今日は今日はと思っていたのよ、カタンカタンとガラスをあげたりおろしたりして、度々受箱を見ていたのよ、
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