と永年思って来たけれど、今はそうばかり思えません。愛すということと好きということはどこかちがって、好き、という感情のつよいひきつける力は、意志以前のようで、好きだから愛してゆくという現実もこまかくみれば、好きなところが多いものだからいやなところや辛いところをこらえて、それをへらす努力をしてゆく、その心が愛というもののようね。好きだから愛す、そんな棒のようなものではないのね、人間の心は。愛は妻なら妻のいやなところに傷けられるときもありながら、只そのいやなところを憎まない、何とかしようとしてゆく、その心ですね。人間のいやなところというのは大変悲しいものね、好きなものがどっかにいやなものもっていて、ちょいちょいそれを出す。そういうことはどんなに味気ないでしょう。私はこうやって自分のいやなものは見つけたけれど、あなたのいやなもの知らないから、何だかこの頁の二行から三行にかけての感想が声になってきこえるようです。本当にそうだったでしょう? 一体になってゆくなりかたというものは、実に実に端倪すべからざるいきさつであると感服もいたします。縦横からなのね。これは、おくりものとしたら、画面にあるかげのような関係のおくりものね。しかし、かげがあって明るみが描き出されているというおもしろさ、ね。

 十月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より((1)島崎鶏二筆「竹」、(2)林重義筆「少女」、(3)竹久夢二筆の雪山の絵、(4)同、角兵衛獅子の絵はがき)〕

(1)これは好きというより何と父の作風と息子の作風とは似ているでしょう、とその見本。
 今夕方でおなかがすいていて、気がおちつかないところです。すると向いのうちからピアノが鳴って、ショパンのエチュードで「雨」という名の友情を表現した曲を一寸ひいている。実に無感情にひいています。ところが、その女のひとが洋装で出て来るときは大変すっきりしていて、身についていて、きれいなの。女の美しさなんて、こんな風にも在り得るかと思ったところです。

(2)極めてデコラティーヴな画面ですが、昔麦僊が庭園と舞妓を描いたのとは全く異った感覚があります。娘は自分のデコラティーヴに扱われていることにわずらわされず、しかも少女の重みをふくんで、なかなか美しいと思います。少女の手の紫陽花《あじさい》は日本画の緑青に近い鮮明な緑をうき立たせて画の焦点をつくって、少女の
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