の可能性の大さを感じます。文学は、人生的にみしみし鳴るおもみに耐え得て来ていることは古典が示して居りますものね。これは又別封でつづくのよ。

 十月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月十三日  第七十一信
 丸善で絵の本を見ていたとき、あのイギリス名画集の別の一冊に「最後の章」という絵がありました。
 いかにもイギリスらしい室内で水色の服をすーっとふくらませた若い女が、あのイギリスの炉辺にしゃがんで、二つの手をそのストーヴに向ってのばして、今よみ終ったばかりの物語か詩の最後の章の感銘を味っているところです。傍の椅子の上に伏せられたまま本があって。
 詩でも戯曲でも、はじめの第一章のつよい感銘と、終りの一章の与える感銘は決定的ですね。ですから、作品についていうとき、よく、はじめすこしよんで、中頃よんで、結びをよめば、その価値がわかるというわけね。しかし、本当の文芸批評からいうと、これはやはり本末顛倒でしょう。少くとも私はそう信じます。
 よい作家たち、旺盛な詩人たちであったなら、これから複雑をきわめ、大きい振幅とテーマの展開とがひかえている全篇の序に向ったとき、おのずから力の集注された表現で開始されるのは自然ですもの。しかも傑作ほど思わせぶりなく主題に入るというトルストイの意味ふかい技法上の必然は、あらゆる場合の真実であることもどんなにつきない興味でしょう。作品の主題そのものが、最初の章では自身のそれから先の展開を知らないで、自身に加えられる展開のための力に従順で、真白い紙をしずかにのべて、様々の方向からの描写を与えられてゆくうちに、いつしか作者とテーマ自体の動きとが一つに起伏しはじめて、作者がテーマをすすめてゆくのか、作者がテーマのリズムの緩急につれて次の章からより深くより密接な次の章へひかれてゆくか見わけのつかないときがはじまります。
 この中頃のめりはりの、すきまのない精神活動の振幅というものは、いい作家たちほど激しく大きく変化の妙をきわめますね。そして、この過程で、テーマの奥の奥まで作家の筆がたっぷりとふれられてゆくか行かないか、それもきまる。テーマが最後の完全な昇華を行うかどうかもきまります。作家が全力をつくしテーマは自身のうねりを絶頂に発揮する、こういうときの見事さ。
 あなたはヴェートーヴェンの交響楽のフィナーレにある、あの一つの迫
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