かれている例にしてみても、題は歴史を語ります。ここにあげられている思いつかれた題をよんで、私は無量の感想にうたれます。こういう題の本が出るべきであるのに。そういう題がつけられていい筈のものであるのに。
 高山のは元のにします。一寸というところはよくわかるのですけれども。勿論よく考えますけれども。現代は題をつける上で、又おのずから微妙なむずかしさがあります。題だけで、そしてその題と著者の名をよみ下しただけで反撥する、そんな神経も題に対してあります。わかるでしょう? ちゃんとしすぎていて通用しない、そんな実際についておわかりになるでしょう。私だけ特別な成層圏にいるわけにゆかない。しかし、最も多く健全な酸素をもつものであろうとする、そういう努力の一つの形として、たとえば「日々の映り」の主観性もより雄弁なものにふくらまそうというわけです。
 十二日づけのお手紙しんからうれしいのですけれど、私は自分たちの生活的リアリズムのために、あなたが私の努力を十分みとめて下さりつつ、その努力の価値と意義とは、私がアマゾンであるからではなくて、毒ガスに当てられれば死ぬ人間らしい人間であるから、益※[#二の字点、1−2−22]健全の価値を知ってそのためにつくし骨を惜しむまいとするところにあると、そう見て下さることで、一層うれしさがリアルです。バックの批評はちがった対象で、作家の人生的難航をかたっていますね。その具体的なものにふれることこそ生きた批評であると云える意味で。自分に対していい批評家であれたら、作家はどんなに育つ力をつよくもつことになるでしょう。作家は従来いつもガンコに主観的です。昔式の作家は皆そうね。その範囲で完成している。そういう主観性と対置されるものはいつも世俗的なかしこさで、藤村のように、こういう時代になるとせっせと子供のよみものを書こうというようなことになり、それを秋声が、ああいう人はいいと歎息してながめることにもなります。藤村の童話は、チャンバラよりは、それはよいでしょう。でもね。秋声がそう歎く歎きにはともかく現代の文学の歎きがこもって居ります。藤村がそういうところへ流れ出してゆくことには、やはり只よりましだ、結構だと云えぬ、すかんところがあるわけです。面白いわねえ。
 十二日のお手紙、改った気持になり、同時に極めて謙遜な心になって、頂きます。自分とすれば一生懸命だおれを
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