あったのね、どこに行ったのかしらと思っていたところでした。このお手紙もなかなか興味ふかく有益です。二葉亭のこういう分裂と矛盾を、今日真面目にかえりみてわが心にきいて見る作家が果して何人いるでしょう。若しそうしたら今日の自分たちのような世わたりはきまりわるくて困るでしょうね。
私はこういう手紙折々頂きたいと思います。あなたの方に時間のゆとりがおありになるときは。たとえばヘッセについても。マンなどについても。私のほしがる心持、よくおわかりになるでしょう? 表現されるということは大切なことですね。表現するということはやっぱり大切なことです。
それから、又一つこの頃考えていることは、古典を私たちがどこまで自身の養いにしてゆくかという点です。若いひとで小説をもって来ます。素質は素直な娘さんなの、でもそのひとの川床は浅くてかたいのよ。何故でしょう? もっとそのひとのもちものは柔かく深いように思えるのに何故自身の重みだけ深まりきらないのでしょう。これについて、そういう世代の人々が川端だの横光だのジイドだのといううらなり芸術にやしなわれて来たということの結果が、こんな貧弱さとしてあらわれていると思えます。うらなり芸術独特のほり下げのあささ、ごまかされた部分のあるがままその上を修辞の力で滑走してゆく芸[#「芸」に傍点]で、一層貧弱なのね。今のような時流の間で、本当に芸術を未来に向って育ててゆく養分はコンテンポラリーには絶対にと云っていいほどありません。やはり、古典、自分、未来この三位一体しかないと思う。
そこで、たとえばトルストイの作品なんかでも、今の若いものは読みつづけられないのですって。何故でしょう。いろいろ考えたらトルストイの作品では、彼の人生観そのものの二元性分裂が映っていて、感性的なものと思想的なものが分裂していて、レーウィンにしろ、あんなにいやなカレーニンにしろ、考えるとなると議論になるのね。考えを考えとしてだけ開陳します。現代の人々の感性はうらなりながら或る立体性にあって感性が理性となる方向――その悪い例は感性の徴象化、今日の詩なんかの――にあって、トルストイが親しめないのね。私はなんだか、ここのところを大変面白い芸術の特殊性の一つだと思います。「鏡としてのトルストイ」には、こういう表現そのもののうちにあらわれている内容の本質はとりあげられていなかったと思って。古
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