う苦しさは、どこにもあなたの妻であるということからの救いはないのよ。おわかりになって? あなたにかかわりない全然私のくちおしさ、苦痛であって、しかも、ことの結果があらわれれば完全にあなたの上にあらわされるということで、堪えるに堪えがたい苦痛がまさるのです。何という気持でしょうねえ。何という気持だったでしょう。ああ、といきなりは、生きていられない、という風に思います。それだと云ってどうするのだろう、つづいてそう考える。自分をそのことによってあなたから切りはなされたものと感じ、しかもそんなおそろしい孤独の状態の中から、全く密接に大事なものにかかわってゆくいきさつがまざまざと見えている。あんな気持って。
 悄気《しょげ》てるの話ね。そういう言葉の表現で、私は一度も云いあらわした覚えはないと思います。だって、そうではないのですもの。ただ、体が随分参っているということは話したでしょうが。この手紙で、あなたが云おうとしていらっしゃることの本質はよくわかりますから、こまかく一つ一つを訂正するというような意味ではなく、ね。
 私には、あの時分、行くたんびに、どうせ命はおしくないんだろう、私だってその位のことは考えているだろうと云って居りました。そして、私が涙を出したり、哀訴したりしないので、こわい様子をしていました。それでも、顔をちがう方へ向ければ、ちがうようにあらわすのね。
 一般に云って、誰がああ云った、それでつい、というところは日常に随分ありがちなのね。こういうことは、それだけ切りはなして云えばだけれど、すこし追いつめて考えれば、たとえば女の作家が自身の芸術の理論をもっていなくて自然発生の仕事ぶりをするということと、どこかで共通ね。この頃はこのことを考えていて、そうなってゆくという作家は十中九人ですが、そうしてゆくという作家はなかなかないということを考えています。たとえば一つの大づかみの創作の理論と方向とは何人かに共通なものとしてあるわけですが(今日でも)そのなかで、チェホフの所謂自分の線というものを、持味という範囲より高めて文学史的見地から描き出してゆくものは、なかなかないわね。
 私はこの文学史的見地での自身の線がほしいと思うことがこの頃、自覚されて来た希望です。ねえ、面白いでしょう。若々しい向う見ずで仕事に熱中する時代からある段階を経て、真に仕事そのもののための情熱で仕
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