本の人がどっさり居りますけれど、そっちには余りいないという話まで出ているのに、「お父さん、何やっていらっしゃるの」というと、笑って答えず、というのはどういうわけでしょう。何もせんさくするのではないが、やっぱりそのことになると誰も答えない、というのは少くとも私の習慣には馴れにくいのね。その辺は農業ではなくて皆小さい商売をしている人が多いというのですが。手紙でかくと、答えないということに何かありそうにきこえるかもしれませんが、格別そうでもないのかしらないけれど、でも普通なら「店をやって居ります」とか何とか一口で一寸云えるところもあるのでしょうと思うけれど。面白いのね。誰も私のようには感じていないのだから。こっちの家もしゃんとしちょる。庭もひろい。家もいい。仕度もちゃんとせて、でOKになっているのだから、私は別に申し条もないわけですが。お里がえりのとき御覧になったら、あちらの家の机の上に木星社の文芸評論集と『婦人公論』とがちゃんとおいて飾ってありましたそうです、呵々大笑的好風景ではないこと? アメリカの父さんのこともこの式の一面なのかもしれませんね。何となくいろいろ面白い。
 野原の方へどうかと云っていた広島の娘さんのこと、多賀ちゃんきのう行って見てすぐまとまるという望みはないように見て来ました。或はたかちゃんなんか口を利いたりすると、あとで大変そのひとにわるくて困ることになるかもしれません。
 この間の晩あんなに細々といろいろ話して、富ちゃん大いに感謝しているらしかったが、果して現実にどう行動するのか。私にはこう云わにゃというところかもしれず。誰に対してはこう云わにゃ、彼に対してはこう云わにゃ。まるで、では自分のためにはどうしなくてはならないのかというところがフヌケとなっていて。こういうつもりがいろいろの事情でああなったというのではなくてね、土台、ああ云っちょこう、こう云っちょかにゃ、だからいやです。お気の毒とも思いますけれども、しんの腐っているという点はやはりリアルに映ります。今度のことではあの家の悪い習慣の結果が実にまざまざとあらわれて。
 今多賀子は野原よ。あついところを又二人で泣いたり笑ったりしていることでしょう。可哀そうに。永い年月の間、日々の勤勉な生活からつつましく生きて来たのでないということは、或時期にこういう結果をもたらすのでしょうか。多賀子はあっちこっ
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