フ無数の用語を一定するのには、如何に苦心を重ねたかが思いやられる」と。ごく些細なような、しかも何と面白いことでしょうね。
 それから漱石はナチュラリスムとロマンチシスムを、歴史の時期によって対生にかわり番こに傾くのがノーマルだと思うと云っているのも面白いと思います。いかにも英文学ね、英国の議会のような(今度保守党、今度自由党)式。そして「或場合にはこの二つの傾向が平衡を示す」などと云っている。これも面白い。対生とか平衡とか当時としてはフレッシュな用語をつかいつつ、この時代には科学的分析というものは全くされていないのですね。例えばロマンティシズムの社会的原因など。いかにも漱石らしい。互に交り平衡を得るなどというところ。彼の境遇とてらして。
 あまりのどが乾いたので何かのみに食堂という方へ行ったら、まるで迷路のようで、昔小さかったときこわい思いをして通った婦人室の廊下の方の、まだ先の、そのまだ先の、太郎の話のようにくねくねとしたところの先にひどいのがあって、婦人席と書いた[#図12、看板の絵。二等辺三角形の下に縦線]黒ヌリが立っているのには失笑を催しました。
『青鞜』の第一号にあるらいてうの文章というものは実におどろくべきものですね。ああいうものがともかく一つの影響をもった時代という点にある興味、意味だけです。彼女が大本教になった[#「なった」に傍点]と思ったが、既に当時から一種の神がかり風なのであったのですね。
 きょう一日だけではすまないらしい。又明日も来なければならないかもしれません。では又明日。これは図書館のすぐ前にポストがあってね、そこへかえりしな入れるのです。

 八月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月一日  第七十二信
 二十九日づけのお手紙、間に日曜がはさまったので、けさ。どうもありがとう。赤子ちゃんの名前のことも。本当にそうね。国男さんたちも、それはわざわざどうも、と恐縮がっていました。男の子の名前、こっちで考えていたのにやはり雄や陽がありました。女の子の名の字は、私とするとおのずから特別な深い感じで見るところもあるわけです。真咲子などと字はいいことね。でも音《おん》は雅子に通じ、どうも些か。詩という字もつかっていらっしゃる、そう思い、くりかえし眺めました。
 昨夜の雷いかがでした。久しぶりだったのでこわいよりも見事でした。丁度八時すぎ上野からおなかぺこでかえって来て、夕飯たべていると、はじまりました。けさ新聞を見ると落雷二十余ヵ所ですって。そうでしたろう。稲妻というものの凄《すさま》じい美しさをあれだけ発揮すれば。床上浸水が六百余戸。床下三万余戸。旱バツの地方へも降ったのならよかったと思いますけれども、これは東京近傍だけだったのでしょうね。本当にあやういところをかえって来たと話し合いました。上野の山の中であれに会ってはテムペスト的風景すぎて、きっとこわかったでしょう、どんなにか。
 本の話、二十九日に会ったとききいたらそうでしたって。自分が参考として持ってゆくとの話でした。大観堂さがしているそうですが、年カン、年表類、古いのはなかなかない由。きょう山屋へ行って見ましょう、そして、あったのだけでもお送りいたしましょうが、どんなことになるか、あればよいが。
 お母さんのお手紙、あなたとしては又御感想がありますでしょうが、お母さんには真実と虚構の区別がいくらかつくだけもおよろこびだろうと思いました。百四十度は本当に息つまるようでしょう。
 平静専一が効果をあらわして実にうれしゅうございます。こうして手紙下さる、原稿のようにすきすきでも、でも手紙下さるからは、きっと幾分ましだろうと思い、二重にうれしい。その上にも猶々お大切に。てっちゃんのところではおくさんと赤ちゃんが仙台で、猫とさし向いの暮の由。ハガキ貰いましたから、あなたからおことづての本のこと、云っておきました。伸ちゃんのお友達の家は存じません。あのひとは先日話していましたが、すこし神経に障害をおこして二度入院したのですって。可哀そうね。今はいいらしいが。自分でそれを意識しているところがあるので、そうだったのでしょうが、はじめ私、何だか普通の人より堅くて、どういうのかと思いました。あなたはでも、そのことにおふれにならなくていいのでしょう、きまりわるいという風に感じているらしい様子ですから。
 きょうのお手紙の字、丁度原稿ぐらいね。夏ぶとんの工合いかがですか。かけていらっしゃるところ、ポンポンとたたいて上げたいこと。おはつ、と云って。この次お目にかかる折はきっと、お送りした方の白いの着ていらっしゃるでしょう。あれは能登半島の方で織る上布です。ああいう織物も来年はなくなります。
 きのう長い時間上野でねばっていたので、きょうは少々出足がしぶり
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