キ。こういう変化が成長の過程に起ってきて、しかもそれをあり来りの自分は自分という形にかためず、相手の独自性(よかれあしかれ)そこから生じる様々の格闘の必然としてプラスの方へとらえてゆこうとする努力という意味で。そういう努力ではじめて、孤立化ではない箇別の価値が生じるわけですから。
 ねえ。この夏一つの暮しかた、それが、どんなに時々刻々の内容となって、作家としてのそういうものに作用し実質化してゆくかと考えると、この作家の独自性ということが、なお重く、新しく呼びかけてくるわけです[自注26]。

[#ここから2字下げ]
[自注22]日比谷は休みになります――東京刑事地方裁判所のこと。公判をふくめて。
[自注23]三日――宮本顕治の公判出廷の日どり。
[自注24]三人の人たち――弁護人。
[自注25]きく顔々にもあらわれるから――当時傍聴席のベンチは、検事局関係者、警視庁特高関係のものだけで埋められていた。公開の公判廷であったが、警視庁の拷問係として知らぬもののなかった栗田という刑事がはっていて、家族のほかに傍聴に来るものを、いちいちしらべ、いやがらせをした。そのために、傍聴者は家族のものと言っても、継続的に来るのは百合子一人、あとは、ときに応じて同志袴田の妻、秋笹の父兄という有様であった。
[自注26]呼びかけてくるわけです――公判がはじまって、勤勉に傍聴したことは、百合子にとって、思いもかけなかったほどの収穫となり、内面の階級的成長に役立った。
[#ここで字下げ終わり]

 七月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月三十一日  第七十一信
 さて、きょうは又この手紙を上野の大きい埃っぽい机の上でかきます。少し風があってしのぎよいようですが、そちらはいかがでしょう。昨夜珍しくねまきを着かえないで眠れたので、今日は体が楽です。一日外にいるときと家にいるときとそれだけちがうのでしょうか、それとも気候か。よくわからない。
 けさはデパートのあく時刻に松坂屋へ行ってあなたの上布をかって、すぐ下の郵便局から速達にしてお送りしました。それから上野へ来たわけ。着物待ち遠しくていらしたでしょう御免なさい。その代り今召しているのよりずっとシャッキリして着心地よい筈です、大いに優待したのですから。
 あなたはここへあまりいらしたことないでしょうね。婦人閲覧室はどこかの通路に沿ってあって、今日は風が通るようにドアをあけはなしてあるから、口笛ふいたり、靴のがたがた通ったりする音がやかましい、ここは、借りて家へ持って来るには、土地家屋・不動産を所有する人の保証がいるのです。不動産とは面白いこと。
 寿江子がエハガキお送りいたしました由、つきましたか。どんな絵よこしました? 明るい色彩? 私の方へは板の間にゴザがしいてあって炉の切ってあるお住居のスケッチをよこしました。八月末に一寸かえって十月までいるとか何とかまだ不定です。寿江、糖の方から呼吸器になりかかったからそれですっかり用心しているわけでしょう。お姉様も三四日是非来いと云って居ります。ひとの気もしらないで。知っているつもりなのですが、やっぱりつまるところ知ってはいないから。太郎は今年海水浴第一課をやる予定のところ、ああちゃんがこういう有様なので、きのうは庭の日向に大きい支那焼火鉢の灰のないのを出して、そこへ水を入れて、泥水の中へ海水着着て入ってよろこんでいるのを見て、そぞろに哀れを催しました。海をみせてやりたいと思って。ところが私はうごけないし、女中さんでは不安だし。遂に太郎は本年泥水ジャブジャブで終るのでしょう。稲ちゃん一家もう保田へ行ったかしら。行かないにしろもうすぐでしょう。本年は鶴さんも行く由。それはそうでなければなりません。保田はあの一家に些かの健康をもたらしはしたが、稲子さんの心の苦痛は保田と全く切りはなせない。保田に行っている、その間に、ですから。女のそういう心配というものは深く考えると何とも云えないものですね。ひどいものね。子供を海に入れてやっている間。赤ちゃんを生んでいる間。その間にもなお深い女の、妻としての心配、不安があるなんて何だろう、と思いますね。
 きょうはここ若い女学生が多うございます。全体すいているのだが。これからすこし古びた雑誌をよみます。では又あとで。すこし倦きる。すると、煙草のむようにこれをあけてすこし書いて休むというわけです。
 ここに一寸面白いことがあります。明治四十一年秋水が、翻訳の苦心を『文章世界』に書いていてね。ブルジョアジーというのが適当な訳語が見出せず、枯川と相談した結果「紳士閥」とした、というようなこと。「それにつけても明治初年から、箕作、福沢、中村などという諸先生が、権利とか義務とかいう訳語や、その他哲学、理化学、医学など
前へ 次へ
全192ページ中134ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング