六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
*二十四信という番号、とんで居りませんか?
三月二十六日 第二十六信
実に何とも云えずにやついて部屋掃除をやりました。たっぷり屋の御亭主というものは、と考えながら。読書のこと百頁が勉強[#「勉強」に傍点]にふさわしく、二百頁がんばれると(!)三十頁というのは、一方に書きものをもっての話と(!)にやつかざるを得ません。だって、私はまだ蝸牛《かたつむり》的テムポですもの、これから見れば。
しかし、この頃は、ここに云われているように、文章に拘泥せず、全体をつかんで読んでゆくこつは些か身につけました。そして、丁度英語で読むときのように、全体としてわからせてゆくという方法で。今の私のもっている科学的素養では、いくらねちねちやったってわかる限度がきまっていて、今は今の網ですくえるだけ掬って、そう思ってよんで居ります。そして、こんな面白い本はきっと又何年か経って又よみかえすと又よくわかるようになっているだろうし、そのときは今引っぱっている棒がうるさくて又別の本が欲しいだろう、そう思います。暮頃よんでいたのは多く一とおりはもとよんだものでして、やっぱりその感じでした。科学としての面白さは次第にわかって来つつあります、特に文学的になるのです手紙だと、どうしても。そうでしょう? 自分の身についたものが多ければ多いほど、その方面の本は速く、深くよめる。だから、文学的なものをよむ力とこういうものをよむ力とを比べて見れば、経済についての知識がどんなに低いかということはおのずから明瞭です。しかし実を云えば、こういうものがこれだけ面白いとはこれまで思えませんでした。どうか当分は蝸牛の歩みよしおそくとも、というところで、御辛棒下さい。私が急に一日に百頁もよんだと云えば、それはうそなのだから。何しろ、W−G−W というような式には初めて出会うのですから。そしてこんなものは云って見ればアルファベットでしょう? そこからえっちらおっちら歩いているのですから。グランマーとはよく仰云ったこと。こういう文法が一通りわかれば、随分多くの他のことがわかりやすくなるのでしょう。貨幣が主に説明されているところなど実に面白い。人間生活として面白い、バルザック風な。グラッドストーンというお爺さんは、なかなか洒落たことを申したのですね、「人間は恋で馬鹿になるよりも、貨幣の理論ではもっと馬鹿になる」と。この老政治家の夫人は賢夫人で、議会に重大な演説のある日、馬車に同乗して、ドアでひどく指をつめ痛み甚しかったが良人には一言も訴えなかったという一つ話があります。議会へ、そもそも同乗して行くというところ。日本の幾多の賢夫人たちはその良妻ぶりを示すそのような機会を決して持たないわけですね。
自身の仕事についてのこと。又生活についてのこと。いろいろ考えます。主観的ないい意志というようなものも、一定条件の限度とともにもあり得るものだということもこの頃ははっきりわかって来ました。而も条件的なものへの敏感さを失って、いい意志というものの中に入ってしまっていれば、結局において自身については一種の盲目であるということも。人間の成長のジグザグの線というものは実に複雑きわまりないと思います。そのものとして大なるプラスの本質をもっているものでも、関係如何によっては、結果としてマイナスに出る場合もあり。外的な時間のことや、おかれた不自由さが、作家の内的豊富さを加えることは、私にもわかって居たと思います。時間がなくて未熟だというようなことよりも、これだけとぎれた間でこれだけ行けばややましだ、という点を自分で見て、大所高所を目安としての未熟さを身に引そえて感じないようなところに、未熟さが現れていたのだと思われます。云わば未熟さが手がこんでいたと思う。
それにしても、あなたは本当に、何という方でしょう。自分の妻であるということでは決して一人の作家たるものを甘やかさない、一層甘やかさない、その弱点をも最も具体的につかんでいる批評家として在る、ということは、何と感動的でしょう。その長所をも、一作家として同じ程度に掴ませることが出来ないとしたら、それは何と悲しいことでしょう。(これは決して、あの手紙、この手紙の部分について云ったりしているのではありません。この頃私はあなたに対して微塵《みじん》もひがんで居りませんから。全体として感じているから。病気を直すときは病のある部分について語るということは分っているから)
家のこともね、やはり全体とのこととして考えて居ります。目先のことだけで、林町へひっこんだような暮しかた、何だか虫が好かないのです。元の杢阿彌と笑っていらしったこと、それほどでないにしろね。あっちを根城にしておいてそちらの近くに部屋を見つけることが一番
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