。もし梅を植える庭があれば、私たちは紅梅を一本きっと忘れなかったでしょう。
 連信に対しては、非常に深い関心をもって下すって有難く思い、又そのような深い根づよい関心の底にあるより深甚な愛、人生への愛というものを感動をもってうけとります。我々のこの愛すべき生活の日々に、悠々として而もたゆみない成長を見て行こうとする努力を自身に期待し、又期待されるということは、厳粛なよろこびです。勉学のこと、文学の仕事のこと、そして折にふれて美しさきわまりない詩譚を話すこと。我々のところにある生活の刻々が、最も全的に、充実的に満たされることを希う心持は益※[#二の字点、1−2−22]深められて来ていて、今では、おそらくあなたの胸のそのあたりにそのような深さで滾々《こんこん》と湛えられている思いが、感じとられるばかりです。これは、ああわかったというのとは違うのよ、この感じとられる、という感じは。おわかりになるでしょう? 目をはなせないのと同様に、それからは心をもぎ離せないのです。総括的展望は形式に拘らず正しく導き出されるだろうと云っていらっしゃる点は全くそのとおりです。私は最も真面目な考察で、連信への感想を読みそれを我ものとしようとして居ります。豊富な話材があるが、と云っていらっしゃることもわかるように思われます。あの連信にしろ、一行が余りに圧縮された形をとっていて、制作と同じ緊張のもとにかかれました。大体このごろ私は手紙をかくのが遅筆になりました。これは決してわるいことではありません。頭の動く敏感さでかかず、心の語る速度や密度にしたがうと、おのずから滴一滴という工合であり、疾風的テムポがよしんば生じたにしろ、それは決して上滑りをしたものではありません。私たちの生活の精髄は、歴史の切り口の尖端にのぞんでいるものであって、真の人類文化の大集成の要義の把握なしには、いかような文飾をもってもつかめる性質のものでないことは実に身をもって感じています。
 きょうは節分です。立春。八百屋や何かで柊《ひいらぎ》の枝を束ねたついなの箒(?)を売っています、はじめてこんなものを見た、撒く豆というのも大きいのね、上落合に暮していた節分の夜、風呂の中で浅草寺の豆まきのラジオをきいて、そのこと手紙にかいたのを思い出しました。うちでは大笑いしました。寿江子が卯《う》の年で年女《としおんな》だからお前に豆をまかせて
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