質だから、三年一つことにかかれば大体めどが見えるから力がないとわかったら、見きわめをつけてすっかり方向をかえると今から云って居ます。そういうところ、はっきりしているからまあやって見ること、本気にやって見ることはいいと思い、私たちの生活に近くいてやろうというところには、全くこれまでと大ちがいの腰のすえかたがあるわけです。これまでは、生活に(父のなくなった後、彼女にとっては急変した条件での生活に)腰が落付かず、私たちの生活の意味はわかるが、近くにいてその調子に合わせること(部分的にでさえ)はのぞんでいなかったのだから。成長というか自分の発見というか、そういうことは例えば面白い一つの例として、ヴェトウヴェンの芸術についての意見で、二三年寿江子は、そのことで私と意見がちがいました。彼の芸術はもう歴史的な価値しかないと云う風に云い、私は、何を生意気云ってるのさ、誰の口真似かい、と云っていた。この頃やっと、そういう評価から脱して、文学的な人生的な芸術家の生活からの問題でなし、音そのものの問題として、ヴェトウヴェンがしんから音をとらえそれを駆使していることを理解し又芸術の性格において自分の学ぶべきものを最も豊かに蔵していると感じている。現代音楽についても、やっと私が同感出来るところまでやって来ました。音楽の性格は寿江子と緑郎とは実にちがうのです。緑郎は近代フランス音楽をよい学生的習作としての作品のうちで多分にうけついでいるし、寿江子は北方的で、単純で、メロディアスというよりもリズミカルで、すこし機械的なところがある。私が寿江子の音楽的創造性について一つの疑問を抱いているのは、寿江子の頭の機械性というとすこし表現がかちすぎるが、例えばドイツ語の文法を文法だけ勉強出来たり、代数の式をいくらでもうつして退屈しなかったり、そういうところがあること、及び、外面的な勝気のあることです。小さく速い頭のよさがあるところ、目さきを(通俗がかって)よく見るところ、それらは大きい芸術の素質とは反対のものです。外面的な勝気などというものは、もし本当に音楽がわかり、愛せばやがて消える消えざるを得ないものですが。
心ひそかな私の空想を許せば、自分たち姉妹が、やはり芸術的生涯を扶《たす》け合って生きてゆくことが出来たら、どんなにかうれしかろうということです。寿江子がこの頃音楽にもとめている健全性というのは、
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