らないでしょうが。横光が『文春』に「旅愁」をかいています。外国の生活と日本の心とのニュアンスを扱おうとしている、彼流に。そういう小説とは別種のものとしての意味で。
「広場」は、もう一展開したかきかたがされると非常に完璧なのです。事情によって半月形のようなところあり、満月でなく。それは作者として心のこりですが、これも一つの案でしょう、そういう部分追補にしてつかえるようにとっておけばいいじゃないの、そうでしょう?
 ひろ子は「雑沓」から作品化された姿であらわれて来るのです。それから重吉も出て来る、これも作品化されたものとなって。でも、私はこの夏のいろいろの経験から、その作品化の浅かったこと、つまり浮彫の明暗を、構成の全体で鈍くしかとらえていなかったことが分って来たので、ずっと書き直します。謂わばこね直します。そして、部分部分出せるところは出してゆきます。私は二様の傾向というか種類の作品をかきましょう、例えばこの頃かくのは或る若い女とその弟が働きに上京して来て暮しているその今日の暮しぶりをかく。多分「三月の第三日曜」という題。この日はその年卒業した小学生が先生につれられて集団となって東京エキや上野駅につきます。そのこと。それはそういう題材ですが、作者の感興のなかでは、はっきり「広場」でかえって来る朝子を描いた心持とつながったものです。その具体化のようなものね。作品と作品との間にあるこういう心理的な必然、は何と興味ふかいでしょう。次々にこうして書くことで初めて作家は作品とともに育ち、育った一歩一歩で作品を生んでゆくということになります。私はあなたもユリがこういう状態にいることをよろこんで下さると思い、うれしい一生懸命な心を励まされます。益※[#二の字点、1−2−22]幅ひろく、多様性をもちつつ河は深く深くと流れ、そういう風にありたいことね。
 勉学のことも、ここに見えない効果をもたらしているのではないかしらと、ちょいちょいこの頃は考えます。濫作ではなくたっぷり作品化して行ける発露を心に感じる状態はうれしいこと。「三月の第三日曜」では私は一つ試みたいことはこういう点です。それは今日の現実をトピック的にとらえることは徳永もやっている。重治さんの「汽車のなか」もそうですし、「杉垣」もそういうところをもっている。「杉垣」はもっともトピックとして語ってはいない。それは「汽車のなか」が
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