いで下さい。却ってこんな形で出るバローメータアがあればようございます。私は体の右がよくないのね。眼の度も右がひどいし。
けれどもこの間『新潮』でとった写真届きましたが、なかなかちっとやそっとで参らなそうな様子です。カゲは到って濃いから御安心下さい。それは気持よい写真だからやきましして貰って一枚おめにかけましょう。私のはいつも皆と一緒で、そういうときの顔は又そういうときの表情ですから。誰かを愉快にしてやりたいと骨を折っているのでもないし。その写真をとったときは、そちらに行って、かえって横になって、いろいろの感じに浸っているうちすこし眠って、おきて間もなくのところでした。御覧になればその感じ、きっと分ると思います。わたしのお歳暮にいたしましょうか。ユリがこんな写真をよこすのならと、良人たるあなたは大いに気をよくなさるところがあっていいと思います。
さて、てっちゃん十五日に立ちますそうです。私は十三日の月曜日に(大体)行って、島田へのおみやげをことづけます。又中村のマンジュウです。いいでしょう? お気に入りですから。どっさりあげます。野原へも分けるのだから。少しかないと舌がかゆいでしょう。てっちゃんは、やっぱり私の手のはれたりするのを心配してくれて、十三日に天気がよければ澄子さんと赤ちゃんづれで稲田登戸へゆこうという計画です。私としては本年はじめてのピクニックね。十三日までに『新潮』の小説をかいてしまわなければ。まだ何をかくか分らないのです。英男という弟の死んだ知らせをモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でうけとって、その悲しさは独自でした、その気持がかきたいのです。でも、どんな風にかけるかと考え中。
きょうは、さっき帝大新聞に「文学のリアリティーとしての思意的な生活感情」というものをかきました。これは武田さんの月評からひき出された感想で、「杉垣」が、翻訳小説なら随分佳作として称讚しただろうが、日本の小説性格形成の過程と西洋的なのとは全くちがう、私のはつくりものと云うのですが、作品との関係では云うこともないが、そこに彼の散文精神の風俗小説的限度があるのです。人間感情のリアリティーとして思意的なものがあることが分っていない。行動の感覚と混同した程度で意力的な感情は日本の文学に昨今どっさり入って来ていますが、その行動を吟味し、人生の歴史のなかへ、集積としてもたら
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