狽ィのずから別ですが。「杉垣」は小さい作品ですが、作家としての私の心持では、去年の手紙がいやに思えるという、そこまで出て来ている心の状態に立って書いているのです。ですから、ひとは何と批評するかしらないけれども自分では心持よいし、先へ仕事をすすめてゆく心の張り合いです。ね、文壇めやすでない、文学のための文学の仕事、そういう仕事の味いというものは、いろいろの時期にその段階で分っているようでいて、さて或時がたつと又新たな実感で分って来るものですね、そこが又面白い。だから或る年齢以上になると、そういう根本的なことについては、何年も前にやはり似たようなこと云っているというようなことが(日記などで)出て、しかも内容は同一でないから面白い。去年の手紙思い出しては、何となく愧《は》じ入っているところのあるのもなかなかいいかもしれませんね。いかが?
十月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十六日 第九十九信
雨のなかを、昨夕は真くらで、新宿辺は珍しい光景でした。通行人は皆傘をさして、傘をさしているというばかりでなく足元をさぐりさぐり歩いていて、地下道(駅)の中でだけいつもの東京人らしい表情と足どりとで歩いている。そのちがいが何だか印象的でした。午後六時ごろそんなところを歩いていたわけはね、珍しく「むさしの」を見たのです。「少年の町」Boy's town というのが見たくて。アメリカで一人の牧師が保護者のない少年たちをあつめてコロニーをつくっていて、そこでまともな社会人としての成長をたすけてやっている、実際あることです。それをその事業の記念として物語化して映画にしているのだけれども、前半は、自然で面白く後半はメロドラマ的にしてしまって安価です。子供の家の生活を描いた、アブデェンコの「私は愛す」という小説はデーツキー・ドウムの生活の人間らしさを描いて感動的なものでしたが、新聞評でも云っているように、この子供の町の後半はアメリカ式センチメンタリズムが多くて、ギャングの人情に陥[#「陥」に「ママ」の注記]して、そういう映画としての欠陥が、そのものでこの牧師の仕事の本質をも語っているような感じです。善意でつくられている映画でもやっぱりそれだけの商魂で価値を低くされている如く、この牧師の善意もそういう少年を街上に放り出す社会生活の性質に対してはやはり一つのビボーで
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