gラックだって同じです。人が降りてえらい目も見る。けれども馬は、馬も人もなかなかでね。
きょう忘れた頃になって浜松夫人から返事でした。瘍《かさ》が背中に出来た由です。体も無理でした由。何の病気かしら。やはり胸でしょう。それだけのことが、お習字のような丁寧な字で書かれていたきりです。
晨ちゃんのところからは細君がハガキくれました。よい方に向っているが、ゆっくりかまえていると、それはそうでしょう。
只今書いているのは「渦潮」、『種蒔く人』の時代から大正の終りまでです。この時代は一年一年が実に内容的ですね。おどろかれます。そして当時の端初的な理論の中で不明瞭にされていた(まだ歯がたたなくて)芸術性の問題は、以来十何年間やはり摩擦のモメントとなって来ているというわけです。だが、このモメントは結局、芸術の生まれる胎がちがう間は消えるものではないのです。あの菊池寛でも、一定不変の芸術の本体というようなことを云ったから面白いと思います。その点ではこの現実家にしてやはり観念化するところ。康成に言わせれば、そこに芸術の鬼が住む、とでも申すべし。
有島武郎の「宣言一つ」の本質を、今度はじめて当時の文芸の解釈との関係で理解しました。藤森の「犠牲」は、人道的苦悶の面のみをとりあげて、考えかたの誤りを見ていない。又、本月号の何かの雑誌で宇野と青野季吉の文学対談で、有島の苦しみは芥川より単純だと云っている。それもわかりますが、それかと云ってこの二人は有島の破滅のバックグラウンドを十分鮮明にしているのでもありません。婦人作家はこの時代に宇野千代、網野菊、三宅やす、ささきふさ、林芙美子等で、とにかく一方に前田河や何か出ているのに、婦人の方はおくれているところも意味ふかいと思います。「キャラメル工場」などは一九二八年・昭和三年ですから。
この作家が先々月『文芸春秋』に「分身」という日支混血児の女の心持をかきました。本月「昨日と今日」という、そのつづきが『文芸』に出ています。よんでみて、深く感じました。混血児が母や自分の血やに感じている愛憎|交々《こもごも》の心持、その間で消耗してゆく心持、それは、混血ということに仮托されているが、作者の内面に意識されている不幸感の描出です。その内容おわかりになるでしょう? 私は読後そのことをむきつけに感じ、作家的努力でこういう形へあてはめて描き出そうとして
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